薩州山川海雲山正龍寺跡 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2020年9月27日の朝、枕崎の火之神公園で日の出を拝んだ後、坊津から瀬戸公園、俵積田、白沢津、番所鼻を経て、開聞岳麓を周回して、川尻温泉経由で山川までやって来た。明日は山川港から佐多岬へ渡る予定である。それでフェリーの時間確認をしておこうと思った。

○フェリー発着所へ行って尋ねると、明日28日は予約が多いとおっしゃる。山川港からは8時10時13時16時と出るが、10時のはすでに予約がいっぱいになっていた。「午前中なら8時の船に乗るしかないね」と言われた。8時なら予約無しで大丈夫だとも。それで8時の船に乗ることとした。

○山川でちょうど昼だったので、いぶすき道の駅山川港「活(い)お街道」のレストラン「市場食堂:鶴の港」で、昼食を取ることにした。お勧めは「山川刺身定食」だと言う。夕べも刺身定食だったが、迷うことなく、「山川刺身定食」1300円を注文した。

○「山川刺身定食」も申し分なくおいしかった。何しろ、魚が新鮮なのである。毎食刺身定食で、何の不満も無い。それくらいのおいしさだった。帰りに、いぶすき道の駅山川港「活(い)お街道」の山川水産加工業協同組合のお店で「本枯節花かつお」を5個買って、お土産とした。これがまた非常に好評だった。もう少したくさん買って帰るべきだった。

○その後、いよいよ薩州山川海雲山正龍寺跡へと向かう。その前に、正龍寺の仁王像を見に出掛けた。山川には現在も正龍寺が存在するが、これは浄土真宗で、江戸時代の正龍寺とは何の関係も無い。ただ、現在の正龍寺の前に、嘗ての正龍寺の仁王像が置いてある。

○正龍寺の仁王像は、それ程、大型ではないけれども、格好の良い仁王像である。それに痛みが少ないので、現在でも立派に鑑賞できるものである。現在の正龍寺のような小さい寺のものではない。宗派から言っても、浄土真宗に仁王像は似合わない。

○その後、薩州山川海雲山正龍寺の墓地跡へ行った。山川の町の南側、もっとも高所が正龍寺の墓地跡となる。つまり、山川の町の最も良い場所に存在したのが薩州山川海雲山正龍寺だと言うことになる。それ程の権勢が薩州山川海雲山正龍寺にはあったと言うことなのだろう。

○今、寺社は何処でも荒れ放題である。現代ほど、信仰心の薄れた時代は嘗て無い。特に、薩摩藩ではそれが激しい。江戸時代までの反動が一気に押し寄せた結果なのだろうが、まことに寂しい限りである。あれ程の栄華を誇った薩摩の仏教文化が灰塵となって消え失せたのだから。

○まさに明治維新と言うのは、宗教革命である。私たち日本人が明治維新で失った文化文明の大きさは計り知れないものがある。坊津の一乗院跡やこの薩州山川海雲山正龍寺跡を見ると、しみじみそのことを感じる。

○確かに、明治維新で得たものも大きい。しかし、失ったものの大きさはなかなか明らかにされていない。そんな気がしてならない。それは歴史を学ばないからである。さいわい、鹿児島には「三國名勝図会」と言う名著があって、江戸時代の寺社について、詳細な記録を残している。「三國名勝図会」を読むと、薩州山川海雲山正龍寺の盛時がよく判る。

○もともと、この薩摩が日向国の中心だったことを誰も指摘しない。日本が日向国から始まったことは「古事記」や「日本書紀」を読んで、誰でも理解している。しかし、その日向国の中心が何処だったかは、誰も指摘しない。そんな不思議な話は無い。

○それ程、日本人は歴史に無頓着なのである。過去に拘泥せず、未来志向で生きようとする姿勢は、ある意味、格好良く見えるが、それは反面、無責任の塊であるに過ぎない。過去があるから今があり、今があるから未来がある。それは避けて通れないことである。

○それに私たちの今が過去の恩恵の賜物であることにも十分留意する必要があろう。過去の恩恵は享受するだけで、それを顧みない姿勢は、何処かおかしい。必要に応じて反省も大事なことである。

○久し振りに、薩州山川海雲山正龍寺跡を訪れ、そんなことを感じた。