白尾國柱:麑藩名勝考 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

福昌寺墓地に白尾國柱のお墓が存在すると言う話を聞いていたが、なかなか訪れることが無かった。2020年3月4日に、ようやく鹿児島市池之上町にある福昌寺墓地を訪れ、白尾國柱のお墓詣りを済ませることができた。

白尾國柱のお墓の側面と裏面には、長瀬眞幸が書いた白尾國柱墓碑銘が存在した。それを苦労して読んだ。いつもお世話になっている白尾國柱への、せめてもの恩返しのつもりである。白尾國柱に学んだことは多い。

白尾國柱の「麑藩名勝考」は、名著である。彼が「麑藩名勝考」をものしたのは、神代三山陵の究明にあると、その序文で触れている。いまどき、神代三山陵をご存じ無い方の方が多いのではないか。

白尾國柱は寡黙であるからして、不必要なことは決して書かない。彼の真骨頂は簡潔明瞭にある。判らない者に、判って貰おうなどとは、断じて思わない。「麑藩名勝考」を読むと、そのことがよく判る。

○例えば、何故、神代三山陵の究明に、あれほど執着するのか。白尾國柱はまるで頓着しない。そんなことも判らない者に、「麑藩名勝考」は読めないし、読んで貰おうなどと、思ってもいない。それが白尾國柱の「麑藩名勝考」である。

○しかし、それでは、白尾國柱が何故、神代三山陵の究明に、あれほど拘泥したのかを知ることはできない。手取り足取りして教えるのも何だが、現代人はこういう読書に慣れていない。したがって、懇切丁寧に説明するしかない。

○国学者、白尾國柱が神代三山陵探索に明け暮れたのは、偏に天皇家の故郷が何処であるかを究明せんとするが爲である。その成果が「麑藩名勝考」となって結実した。そういうふうに、白尾國柱は「麑藩名勝考」の序文で述べている。

神代三山陵が何処に存在したか。ご存じだろうか。現在、宮内庁が神代三山陵比定地として、管轄しているのは、次の通りである。これは明治七年(1874年)に定められた。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県霧島市溝辺町麓の高屋山陵
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○しかし、寛政七年(1785年)刊行の「麑藩名勝考」が比定しているのは、そうではない。それは次の通りとなっている。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県薩摩川内市の新田神社
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○常識的には、新しいものが本物だと思いがちである。しかし、白尾國柱ほどの熱意をもって、明治七年(1874年)の判断はなされていない。極めて政治色の濃いものとなっている。可愛山陵は薩摩國国府付近、高屋山陵は大隅國国府付近などと言うのでは、あんまりである。誰も承知する者など居ない。

○当古代文化研究所では、白尾國柱の研究を継承して、神代三山陵比定地探索を行った。結果、真実の神代三山陵比定地は、次のようになる。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○これが真実の神代三山陵比定地であることは、間違いない。話は神代のことだが、二十一世紀の現代に於いても、それが証明できる。何とも恐ろしい話だが、詳細は次回に。

白尾國柱の「麑藩名勝考」を読むと言うことは、そういうことを考えることである。そういうふうに白尾國柱が私たちに教えてくれる。真面目に「麑藩名勝考」を読むと、そうなる。