○染川實秀墓が存在するのは、鹿児島市冷水町の興国寺墓地である。興国寺墓地は広大な墓地で、すっかり荒れ果てている墓も多い。以前、そこで染川實秀墓碑銘を探したことがある。西郷隆盛が書いた墓碑銘は二つ存在し、一つは横山安武墓碑銘で、これは福昌寺墓地にある。もう一つが染川實秀墓碑銘で、これは興国寺墓地にあると言う話を聞いたからである。
○先週の日曜日、2020年5月31日に、三度目の探索で、やっと染川實秀墓碑銘を見付け、2時間掛けて大清掃をした。昨日、6月7日の日曜日、再度、興国寺墓地を訪れて、墓碑銘の文字を確認した。
○染川實秀墓碑銘は染川實秀のお墓の前に存在する。どちらかと言うと、染川實秀のお墓よりも、染川實秀墓碑銘の方が遥かに大きく立派で、目立つ。それ程、染川實秀墓碑銘は大きく堂々としたものとなっている。
○ただ、染川實秀のお墓にしたところで、なかなか立派なものである。普通、墓は四角のものが多いが、染川實秀のお墓は、六角形で、全ての面に文字が刻んである。正面には、
染河彦兵衛平實秀墓
と大書してある。西郷隆盛が書いた染川實秀墓碑銘さえ無ければ、なかなかのお墓である。
○その染川實秀のお墓の文字も気になった。それは先日、紹介したばかりである。
・テーマ「伊地知季安「漢学起源」を読む」:ブログ『染河彦兵衛平實秀墓』
https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12602143258.html
○今回は、それを読んでみようと言うわけである。書き下し文にすれば、次のようになる。
染河彦兵衛平實秀墓
慶應戊辰(1868年)閏四月廿五日、染河彦兵衛平實秀君、王事で陸奥に死す。当初、君賊を
淀八幡に敗り、追撃して浪華に抵る。東征總督、岩倉某に尋従して東山道先鋒と爲り、賊を下野
梁田驛の一戦に撃ち、之を走らす。總督、乃ち手斟にて杯酒を賜ひ、旦下、褒書して之を賞す。
又、鹽埼より幷びに板室へ進戦し、皆、之に克つ。逾、白川城まで進攻し、直ちに砲臺下に逼る。
銃丸の雨のごとく注ぎ、戰ひ、甚だ苦しむ。君に丸の中る者二、年二十六にて還死す。長壽院に
葬り、遺髪を此の宮に収む。葬祭資金凢若干、又、歳給米若干苞を賜り、以て其の後を憮恤す。
嗚呼、士の忠孝、両全一死は不朽なり。復た憾ずる所莫し。爰に其の槩畧を叙し、以て石に勒む
のみ。
明治辛未春二月
一等教官兒玉利彰謹誌
【補注】
・慶應戊辰=慶應4年・1868年
・撫恤=いつくしみあわれみ、物をめぐむこと。
・槩畧=概略。
・明治辛未=明治4年・1871年
○染河彦兵衛平實秀君が亡くなったのは、慶應4年(1868年)4月25日のことだという。享年26歳。あまりに若い死である。碑銘によれば、興国寺墓地に墓が建てられたのは、明治4年(1871年)のことだという。碑銘を記したのは、一等教官、兒玉利彰であると言う。