刀匠波平:三国名勝図会 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

○2008年5月24日に、ブログ『刀匠波平』を書いている。

  ・テーマ「鹿児島を彩る人々」:ブログ『刀匠波平』

  https://ameblo.jp/sisiza1949/entry-12519938152.html?frm=theme

ブログ『刀匠波平』は、「麑藩名勝考」巻之四、薩摩国谿山郡谷山郷福元村の項に、記載されているものであった。今回、鹿児島を訪れ、南洲墓地や興国寺墓地、福昌寺跡、南林寺由緒墓などへ参詣した。

それであれこれ調べているうちに、「三国名勝図会」巻之十九、『薩摩國豁山郡』の中に、『波平劔匠』項目を見付けた。

ブログ『刀匠波平』を書いたのは2008年5月だから、もう十二年も昔のことである。何か懐かしい気がした。それで、あらためて、「三国名勝図会」が載せる『波平劔匠』について、触れてみたい。

      波平劔匠(地頭館より子方、二十町許)

   福本村波平に、古来劔匠あり。氏を橋口と號す。その鼻祖を正國といふ。正國は一條帝の御劔を作

  れり。本貫和州の人にて、薩州に來り、此地に卜居す。(正國は、後名を行安と改めしとの説あり。又

  仰木弘邦が古刀銘畫大全に、正國所造の刀、八百年と銘するもありと記す。)世に普く知れる三條小

  鍛冶宗近は、正國が弟子なり。大宮記曰、宗近は、從四位下播磨守橘仲遠の男橘大仲宗といひし。

  法興院殿に仕へり。天元二年九月二九日の夜、木工寮の仕丁稲丸を闇討にせんとしたる科に因て、

  同年十一月、薩摩國へ流罪す。三重野に居れり。豁山の正國に師とし事へ、鍛冶を業とし、名を宗近

  と改む。永祚元年五月、赦免ありて、帰京し、洛東白川に住て、名剣多く造れり。(法興院は、諱は兼

  家、東三條と號す。一條三條二帝の外祖にて、摂政太政大臣たり。永祚二年七月二日に薨ずと、知

  譜拙記等に見えたり。)