陌上桑(北宋·文彦博詩) | 古代文化研究所

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○これまで、『陌上桑』詩を次のように見て来た。

  陌上桑(漢楽府诗)
  陌上桑(曹操詩作)
  陌上桑(魏文帝曹丕詩)
  陌上桑(魏國曹植詩)
  陌上桑(呉均詩作)
  陌上桑(王筠詩作)

  陌上桑 (王台卿詩作)
  陌上桑 (唐代李白詩作)

  陌上桑(陸龜蒙詩作)

○引き続き、今回は、文彦博詩作の『陌上桑』である。

  【原文】
      陌上桑(北宋·文彦博詩)
    佳人名莫愁,采桑南陌頭。
    困來淇水畔,應過上宮游。
    貯葉青絲籠,攀條紫桂鉤。
    使君徒見問,五馬亦遲留。

  【書き下し文】
      陌上桑(北宋·文彦博詩)
    佳人は名を愁ふること莫く、桑を采る、南陌の頭。
    困り來る、淇水の畔り、應に上宮に游ぶに過ぐべし。
    葉を貯えた青絲の籠、條を攀す、紫桂の鉤。
    使君は徒だ見問ふのみ、五馬が亦た遲留せんことを。

  【我が儘勝手な私訳】
    美人は世間の噂など気にせず、南側の畦道で桑の葉を採っている。
    疲れ倦んだ貴人は淇水の畔に、いまちょうど上宮辺りを散策しているに違いない。
    美人は大量の桑の葉を青縄の籠に入れ、桑の小枝を紫桂製の鉤で引き寄せている。
    郡守はただ見尋ね、心配するしかない、郡守の家来どもが迎えにやって来ないかを。

○もともと『陌上桑』は、漢楽府に採譜されている全53行の壮大な五言古詩である。それが時代を経て受け継がれ、高適の『薊門行五首』詩まで及んでいる。高適(704~764)の生きた時代は八世紀であるから、それまでに相当の年代を経ている。

○その間に、『陌上桑』の概念そのものも、相当変化していると言わざるを得ない。例えば、三曹である
曹操・曹丕・曹植にしたところで、三人とも同じ題の『陌上桑』をものしているけれども、その詩作はまるで違う。『陌上桑』の伝統を保持しているのは、曹丕一人に過ぎない。

○文彦博詩作の『陌上桑』にしたところで、『陌上桑』の伝統は、ほとんど感じられない。完全な恋愛詩となっている。それには、もちろん、理由がある。

○『詩経』の国風の鄘風篇に、「桑中」と言う題の詩が存在する。それが文彦博の『陌上桑』詩に多大な影響を与えている。そのことを理解するには、『詩経』の「桑中」詩を見るしかない。長くなるので、次回に繋げたい。


○ちなみに、詩人文彦博も気になる。中国の検索エンジン百度の百度百科が案内する文彦博は、次の通り。
      文彦博
   文彦博(1006年10月23日—1097年6月16日),字宽夫,号伊叟。汾州介休(今山西介休)人。北宋时
  期著名政治家、书法家。
   天圣五年(1027年),文彦博进士及第。历任殿中侍御史、转运副使等职。庆历七年(1047年),任
  枢密副使、参知政事,以平王则起义功,拜同平章事。皇祐三年(1051年)被劾罢相,出知许、青、永
  兴等州军。至和二年(1055年)复相。嘉祐三年(1058年),出判河南等地,封潞国公。神宗时,反对
  王安石变法,极论市易法“损国体、惹民怨”,出判大名、河南府,累加至太尉。元丰六年(1083年)
  以太师致仕。哲宗元祐元年(1086年),因司马光荐,拜平章军国重事。元祐五年(1090年),再次致
  仕。
   绍圣四年(1097年),降授太子少保,同年去世,年九十二。徽宗时,与司马光等并入元祐党人碑,
  后追复太师,谥号“忠烈”。康熙六十一年(1722年),从祀历代帝王庙。
   文彦博历仕仁、英、神、哲四朝,荐跻二府,七换节钺,出将入相五十年。任殿中侍御史期间,秉公
  执法,曾成功地抵御西夏入侵。为相期间,大胆提出裁军八万之主张,为精兵简政,减轻人民负担,

  被世人称为贤相。有《文潞公集》四十卷,《全宋词》录其词一首。
  https://baike.baidu.com/item/文彦博/422294?fr=aladdin