岑参:登古鄴城 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

 

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〇岑參の作品を案内している。前回は、岑參の『山房春事』詩を紹介した。今回案内するのは、岑參の『登古鄴城』詩である。

  【原文】
    登古鄴城
       岑参
    下馬登鄴城
    城空復何見
    東風吹野火
    暮入飛雲殿
    城隅南對望陵臺
    漳水東流不復囘
    武帝宮中人去盡
    年年春色爲誰來

  【書き下し文】
      古鄴城に登る
          岑参
    馬を下りて、鄴城に登れば、
    城空しくして、復た何をか見ん。
    東風は野火を吹き、
    暮れに入る、飛雲殿。
    城隅、南のかた、望陵台に対へば、
    漳水、東流して、復た回らず。
    武帝の宮中、人去り尽くすに、
    年年の春色、誰が為にか来たる。

  【我が儘勝手な私訳】
    馬から下りて、私は嘗ての鄴の古城へと登って行く。
    しかし鄴の古城は今は空虚そのもので、まったく何も無い。
    鄴の古城には、今は、ただ春風が野火を吹き上げているばかりで、
    夕暮れ時になって、嘗ての飛雲殿の跡地へと入って行く。
    鄴の古城の南の隅、望陵台と呼ばれるところに向かうと、
    漳水が東へ流れて行くのが見え、川の流れは再び帰ることはない。
    曹操の宮中に居た人々は、今はもう誰も居ないと言うのに、
    毎年変りなく春は訪れるが、一体誰の為に来ると言うのだろうか。

〇鄴城は、曹操の造営した都として知られる。その後も後趙、冉魏、前燕、東魏、北齊と、六朝時代に、都城として栄えた。現在の安陽市と邯鄲市に跨る地域である。行政上は、安陽市は河南省なのに対し、邯鄲市は河北省に属す。

〇2017年3月19日(日)に、老子故里を訪れた。老子の故郷は、河南省周口市鹿邑县太清宫镇だとされる。その際、老子故里へ行くのに、亳州市を通って行った。、その亳州市から鹿邑县太清宫镇までは24公里くらいである。

〇それに対して、周口市の中心部から鹿邑县太清宫镇までは、107公里もある。だから、亳州市に泊まって、老子故里を訪問することを選んだわけである。

〇その時、知ったことだが、亳州は、曹操の故郷である。亳州市には曹操公园や魏武祠、魏武广场などが存在し、魏武大道が走っている。現在でも、曹操は亳州市の英雄なのである。
  ・テーマ「老子故里」:ブログ『魏武广场・魏武大道』
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〇その後、杜甫故里へと巡り、安陽と邯鄲を訪問した。邯鄲市臨漳県に鄴城跡が存在し、安陽市安豊郷にに曹操高陵が存在することを知った。それで鄴城跡や曹操高陵を訪れたいと思ったのだが、全然時間がなかった。それで断念した記憶がある。
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〇その邯鄲市臨漳県の鄴城跡を岑参が訪れた。その時の感慨を詠ったのが、岑參の『登古鄴城』詩である。この詩を読むと、いろんなことを考えさせられる。芭蕉に、次の表現がある。
      平泉
   三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有り。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山の

  み形を残す。
   先づ高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて、大
  河に落入る。
   康衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。
   偖も義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり。城春にして草青み
  たり」と、笠打敷きて、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
    夏草や兵どもが夢の跡
    卯の花に兼房みゆる白毛かな   曾良

〇芭蕉が漢詩に通暁していたことは、よく知られている。それがどの程度であったか。そういうことを判断する研究は、それ程行われていない気がしてならない。岑參の『登古鄴城』詩を読み、芭蕉の「奥の細道:平泉」を読むと、芭蕉が岑參の影響を受けていると判断するしかない。

〇芭蕉は道士である。芭蕉ほど中国の思想や文学の影響下にある人も珍しい。芭蕉は一回も中国訪問すらしていないのに、誰よりも中国通であるのに驚く。

〇中国を訪問すればするほど、芭蕉が出現するのに、驚く。会稽がそうだし、西湖がそうである。芭蕉の羨望が聞こえてくるような気がする。良い時代に生まれたことに感謝したい。

●念の為。蛇足ながら、補足しておくと、芭蕉がアイディアを盗んだとか言う話ではない。中国では、すでに、岑参の時代に、こういう詩様式が定型化していたと言うことである。それに従って、岑參の『登古鄴城』詩は成立している。芭蕉も、それに倣ったと言うに過ぎない。文化は耕すことなのである。芭蕉は中国文学を深く愛し、よく耕し、しっかり自分のものとしている。それが芭蕉の偉大なところである。

●そういうことは、他の中国の詩を読むことによって、確認される。岑參の『登古鄴城』詩だけを読んで判断してはなるまい。それ程、中国文学は奥が深い。