杜甫:雨 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

 

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〇白玉蟾の『立春』(五絶)詩、『立春』(七絶)詩を調べているうちに、杜甫に『雨』詩があることを知った。杜甫詩については、成都の杜甫草堂を訪問した際、幾らか案内している。

〇具体的には、杜甫の『卜居』詩から、杜甫の絶句詩までである。
  )竜錙´堂成 i譱蝓´で澑 サ匯蝓´Π拉澄´Р十五司馬弟出郭相訪、兼遺營茅屋貲
  有客 賓至 狂夫 田舍 江村 江漲 野老 雲山 伊摸
  影銕叩´化嫐覺遽 浬嫂紂´含盻る柑犾´仝緲掘´寒食 絶句漫興其一
  だ箒臾ゞ渋尭鵝´コ?旭拿風所破歌 絶句漫興其三 Ю箒臾ゞ渋胸
  ┨眦:人日寄杜二拾遺 追酬故高蜀州人日見寄 絶句二首・其一 絶句二首・其二
つまり、此処で杜甫31作品を案内している。

〇ここには、杜甫の『雨』詩は無い。したがって、改めて、杜甫の『雨』詩を紹介したい。
  【原文】
      雨
       杜甫
    冥冥甲子雨
    已度立春時
    輕箑煩相向
    纖絺恐自疑
    煙添才有色
    風引更如絲
    直覺巫山暮
    兼催宋玉悲

  【書き下し文】
      雨
       杜甫
    冥冥として、甲子に雨ふり、
    已に度る、立春の時。
    輕やかな箑は、相向くに煩わしく、
    纖絺は自ら疑ふを恐る。
    煙の添へば、才に色有り、
    風の引けば、更に絲の如し。
    直に覺ゆ、巫山の暮れは、
    兼ねて催すと、宋玉の悲しみを。

  【我が儘勝手な私訳】
       大歷元年(766年)は、正月初八日が甲子であった。杜甫は永泰元年(公元765年)
      五月に成都の草堂を離れ、長江を下り、九月から重慶雲陽県雲安鎮に在った。大歷元年(7
      66年)で杜甫は五五歳になっている。
    大歷元年(766年)の正月初八日、鬱陶しい雨が降り、
    今年は今日が立春の日となっている。
    竹製の軽い立派な団扇があっても、扇ぐことは億劫だし、
    葛の繊維で織った上等の衣服は、着ているかも判らない
    長江の川面に霧が湧くと、それはまさに才色兼備の美女の美しさであり、
    長江の川面に風が吹き渡ると、それはもう天上の音楽の様である。
    此処、長江の山峡の巫山の夕暮れと言うのは、私に思い出させて止まない、
    紀元前三世紀の楚国の詩人、宋玉の憂愁を。

〇杜甫は長江三峡の雲陽県雲安鎮で、半年あまりを過ごしている。それは杜甫が病気だったからだとされる。何とも大変なところで病気になったと言うしかない。

〇それでも、杜甫の作詩意欲が、まるで失せていないことに驚く。杜甫は生来の詩人だったと言うしかない。杜甫の『雨』詩を読みながら、杜甫が道士であったことを今更ながら実感した。

〇蛇足になるが、芭蕉は元禄3年(1690年)46歳の時、『幻住庵記(異本)』を書いている。その中に、次のような記述がある。
   我強ひて閑寂を好むとしなけれど、病身人に倦みて、世を厭ひし人に似たり。いかにぞや、法をも
  修せず、俗をもつとめず、仁にもつかず、義にもよらず、唯若き時より横ざまに好ける事ありて、暫
  く生涯のはかりごととさへなれば、萬のことに心をいれず、終に無能無才にして此一筋につながる。
  凡そ西行・宗祇の風雅における、雪舟の絵に置る、賢愚ひとしからざれども、其貫道するものは
  一ならむと、背をおし腹をさすり、顔をしかむるうちに、覚えず初秋半ばに過ぎぬ。一生の終りも
  これにおなじく、夢のごとくにして又々幻住なるべし。
    先づたのむ椎の木も有り夏木立
    頓て死ぬけしきも見えず蝉の声
      元禄三夷則下                     芭蕉桃青

〇杜甫が亡くなったのは、大暦元年(770年)である。杜甫の『雨』詩が作られたのは大歷元年(766年)だから、死ぬ4年前のことである。芭蕉が『幻住庵記』を書いたのも、亡くなる4年前のことである。

〇杜甫と芭蕉との間には、900年ほどの時間差がある。杜甫も道士だが芭蕉も道士である。二人が何とも似ているのに驚くし、また似て非なるところに驚かされる。杜甫の『雨』詩を読みながら、そういうことを思った。