甫与志岳が可愛山陵であること | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○2008年正月4日に国見峠から甫与志岳までを往復した。
  ・書庫「神代三山陵の研究」:ブログ『神代三山陵の研究捕逸◆
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/861707.html

○2008年正月19日には、国見山にも登っている。
  ・書庫「神代三山陵の研究」:ブログ『神代三山陵の研究捕逸』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/4007232.html

○昨年、2016年5月22日(日)には、「第3回肝付町三岳まいり」に参加し、肝属山地の国見岳・黒尊岳・甫与志岳を縦走してきた。
  ・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『国見平から国見岳へ』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40381105.html
  ・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『国見平から黒尊岳へ』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40383352.html
  ・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『黒尊岳から甫与志岳へ』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40385685.html
  ・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『甫与志岳から姫門登山口まで』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40387270.html

○今年も「肝付町三岳まいり」へ参加し、国見岳・黒尊岳・甫与志岳へ登って来た。何故、こんなふうに肝付町三岳に執着し、登るのかと言うと、それは肝付町三岳が神代三山陵巡りだからだと言うしかない。もちろん、そんなことをおっしゃる方は誰も居ない。

○しかし、白尾國柱の神代三山陵研究を継承して研究すると、真実の神代三山陵へ辿り着く。それは次のように案内される。
  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝付町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝付町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

○肝属山地の最高峰、甫与志岳に現在祀られているのは、玉依姫、彦火火出見尊とされる。これはどう考えてもおかしな話である。前回、そういう話をした。
  ・書庫「肝属町の三岳参り」:ブログ『甫与志岳』
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/40955397.html

○やはり、甫与志岳の祀られるのに相応しいのは、彦火瓊々杵尊しか居ない。そう考えると、真実の神代三山陵がどういうものであるかが、見えて来る。本ブログでは、これまで、そういう研究をしてきた。
  ・書庫「神代三山陵の研究」:16個のブログ
  https://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/folder/144322.html?m=l

○現在、内之浦へ出掛けると、北方枦ノ木に高屋神社が鎮座まします。高屋神社から遥拝するように高屋山(国見山)が北へ屹立している。内之浦の東は海である。北と南と西は山である。内之浦の北の山が高屋山(886叩砲任△蝓∪召了海甫与志岳(967叩砲如南はそれほど高くなく、美濃峠あたりで250辰らいである。

○白尾國柱がその著「麑藩名勝考」で、吾平山陵を鹿屋市吾平町上名とし、高屋山陵を肝付町内之浦国見山としていることの意義は大きい。その白尾國柱でさえも、可愛山陵は薩摩川内市の新田神社とせざるを得なかった。それは何も白尾國柱のせいではない。それはたぶん、時代の壁だと私は判断する。

○白尾國柱が現代に生きていれば、躊躇することなく、可愛山陵を内之浦甫与志岳(叶岳)に比定したことは疑いない。それほど、白尾國柱には神代三山陵の全貌が見えていたと信じる。

○甫与志岳(967叩砲ら小田川に沿って、真っ直ぐ東へ延びている山脈がある。その東端は内之浦の町を南北に分断している。内之浦では山脈の北を北方呼び、南を南方と呼び称している。内之浦の町の中心は南方に存在する。

○その甫与志岳からの山脈の東端の山を叶岳(187、2叩砲噺世Α8什澆麓屬任眦个譟▲灰董璽験雎戞奮雎戮佞譴△い凌后砲存在する。肝付町のHPが案内する「叶岳ふれあいの森」は、次の通り。
      叶岳ふれあいの森
   内之浦地区市街地の中央部に位置する標高187.1メートルの叶岳は、西側に国見山系が連なり、どこ
  からでも内之浦湾を一望できる小高い丘です。
   涼やかな潮風と、贅沢な眺めをお楽しみください。
  【叶嶽神社】
   三国名勝図会等によると、この叶岳は第12代景行天皇が熊襲を討伐し、平定の願いが叶ったことか
  ら「叶岳」と命名されたとの伝説が残っています。
   この由緒ある叶岳の名称を広く後世に伝えようと、叶岳の山頂には、1996(平成8)年2月に町内有
  志の方々が祠を建立し、叶嶽神社を創建しました。
  http://kimotsuki-town.jp/4989.htm

○別に、肝付町観光協会のHPにも、詳しい案内がある。
      叶岳ふれあいの森
   内之浦地区市街地の中央部に位置する標高187メートルの叶岳は、どこからでも内之浦湾を一望
  できる小高い丘です。「叶岳」の名は第12代景行天皇が熊襲を討伐し願いが叶ったことに由来した
  との伝説があります。
   山頂には景行天皇を祀る石祠と叶嶽神社があり、さらにログハウスの宿泊施設「コテージ叶岳」、
  体験交流施設「森の学舎 木遊館」があり、各種研修やご家族、友人たちとの宿泊などにご利用いた
  だけます。
  http://www.kankou-kimotsuki.net/midokoro/%e5%8f%b6%e5%b2%b3%e3%81%b5%e3%82%8c%e3%81%82%e3%81%84%e3%81%ae%e6%a3%ae-2/

○説明に、
  ・「叶岳」の名は第12代景行天皇が熊襲を討伐し願いが叶ったことに由来
とある。実に微笑ましい話であるが、そうではあるまい。奈良県吉野山の中心の丘にも「相叶」と言う名が存在する。おそらく、叶岳の名は「可愛岳」に由来するものであろう。

○甫与志岳が可愛山陵であることは、そういうことからも裏付けされる。ただ、本当の証明は、意外なところでなされる。次回はそういう話をしたい。