京杭大運河:揚州 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○揚州を訪れたのは2013年10月17日の午後で、一泊し、18日には上海に帰る予定であった。揚州では、揚州大明寺に参詣することが最大の目的であった。だから、17日のうちに、揚州大明寺へ一番に参詣した。

○もう一つ、揚州訪問で訪れたいところが京杭大運河であった。京杭大運河の南端である、杭州の銭塘江と京杭大運河の合流点には、以前、既に訪れている。
  ・書庫「白居易の愛した佛都・杭州」:ブログ『京杭大運河』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37323049.html
  ・書庫「白居易の愛した佛都・杭州」:ブログ『京杭大運河(続き)』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37325467.html

○また、杭州の京杭大運河を遊覧したこともある。
  ・書庫「世界上最美麗華貴之城:杭州」:ブログ『京杭大運河:武林门码头』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37959530.html
  ・書庫「世界上最美麗華貴之城:杭州」:ブログ『京杭大運河:拱宸桥』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/37962572.html

○本当は、出来れば、船で、ずっと京杭大運河を遡ってみたいのだが、残念ながら、現在、そういう運航をする船が無い。インターネットで検索すると、以前は杭州から蘇州まで一泊する船が航行していたらしいのだが、現在は、それも無くなっている。

○長江と京杭大運河が交差するところが揚州であり、鎮江である。唐代には、南京より揚州の方が栄えていた時代もあった。そう言う意味で、揚州の繁栄と京杭大運河は密接な関係がある。

○揚州市の町中の東側に古運河が存在し、更にその東側に京杭大運河が存在することは、日本に居る時に調べていた。2013年10月18日の朝に、何時も通り、5時前には起き、朝一番に京杭大運河観光に出掛けることとした。

○朝6時に、汶河路と文昌路とが交差する文昌閣前でタクシーを拾った。年配の運転手さんに、京杭大運河まで行き、それから古運河まで帰って来たい旨を説明する。中国語が話せないので筆談である。運転手さんは「判った。安心しろ。俺が連れて行ってやる」と言うふうで、ホッとした。

○文昌閣から文昌路を東へ2劼曚描?襪噺撤寝呂如解放橋が架かっている。古運河から更に3、5劼曚錨貎覆垢襪函大橋が見えてくる。これが文昌大橋で、橋の下が京杭大運河であった。

○その先の交差点を右折し、更に右へ入ると、京杭大運河の畔に出る。そこに『世界運河名城博覧会永久会址(PARMAMENT SITE OF WORLD CANAL SITIES EXPO)』の立派な建物が存在した。ここで世界運河博覧会が催された際の記念建築物であるらしい。周囲は公園化されていた。

○『世界運河名城博覧会永久会址』の建物裏に京杭大運河が存在した。朝早いのだが、目が覚める思いがした。杭州から長江まで、おおよそ400劼瞭残?任△襦この間を『江南運河』と言い、『江南運河』が出来たのは、西暦610年だと言うから驚く。

○もっとも、中国では、隋代の遙か以前、紀元前5世紀ころから、盛んに運河が構築されていたらしい。そういう運河を一気呵成に繋いで完成させたのが隋の煬帝である。

○日本のウィキペディアフリー百科事典が案内する大運河は、次の通り。

      京杭大運河
   京杭大運河(けいこうだいうんが)は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートル
  に及ぶ大運河である。途中で、黄河と揚子江を横断している。戦国時代より部分的には開削されてき
  たが、隋の文帝と煬帝がこれを整備した。完成は610年。運河建設は人民に負担を強いて隋末の反乱
  の原因となったが、運河によって政治の中心地華北と経済の中心地江南、さらに軍事上の要地涿郡が
  結合して、中国統一の基盤が整備された。この運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用され、現
  在も中国の大動脈として利用されている。
  【煬帝の開削】
   北周から禅譲を受けて隋を建国した楊堅(文帝)は、この問題を解決するために587年に淮水と長
  江を結ぶ邗溝(かんこう)[1]を開鑿し、589年に陳を滅ぼして、南北を統一した。
   604年に二代皇帝煬帝が即位し、翌年より再び大運河の工事が始まる。
   まず初めに黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうせいきょ)が作られ、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠
  (えいせいきょ)、そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河北から浙江へとつながる大運河
  が完成した。完成は610年のことで、その総延長は2500キロメートルを越える。
   通済渠の工事には100万人の民衆が動員され、女性までも徴発されて5か月で完成した。これによっ
  て、後の人から暴政と非難され、更にこの運河を煬帝自身が竜船(皇帝が乗る船)に乗って遊覧し、
  煬帝が好んだ江南へと行幸するのに使ったことから、「自らの好みのために民衆を徴発した」などと
  も言われるようになる。
   大運河は一から全てを開削したわけではなく、既存の小運河を連結した部分がかなりある。また大
  運河の建造は南北の統一を確かなものとし、江南の物産を河北にもたらした[2]。永済渠建設の目的
  は高句麗遠征であった。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%9D%AD%E5%A4%A7%E9%81%8B%E6%B2%B3

○揚州の京杭大運河を目の当たりにし、その大きいのに驚くしかない。この大きさ広さなら、相当大きな船であっても、優に航行することが出来る。実際、私が見学している際にも、相当大きな船が北へ遡って行った。

○こういう運河が、今から1400年も昔に出来ていた中国文明に驚くしかない。日本では、まだ、飛鳥時代の話である。

○また、煬帝は偉大な皇帝であるとともに文学に通暁し、敬虔な仏教徒でもあった。そんな煬帝について日本のウィキペディアフリー百科事典は、
      煬帝
   煬帝(ようだい[1]、ようてい[2])は隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。
  煬帝は唐王朝による追謚である。中国史を代表する暴君といわれる[3]。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E5%B8%9D
と評価するが、この評価は決して正当なものとは言えない。その点、中国の検索エンジン百度の「百度百科」が案内する煬帝、
      杨广(隋朝第二代皇帝)
   隋炀帝(隋朝第二代皇帝) 即 杨广 (隋朝第二代皇帝) 。
   隋炀帝杨广(569年-618年4月11日),华阴人(今陕西华阴)人,生于隋京师长安,是隋朝第二位
  皇帝,一名英,小字阿麽。隋文帝杨坚、独孤皇后的次子,开皇元年(581年)立为晋王,开皇二十年
  (600年)十一月立为太子,仁寿四年(604年)七月继位。他在位期间修建大运河(开通永济渠、通济
  渠,加修邗沟、江南运河),营建东都迁都洛阳城,开创科举制度,亲征吐谷浑,三征高句丽,因为滥
  用民力,造成天下大乱直接导致了隋朝的灭亡,618年在江都被部下缢杀。唐朝谥炀皇帝,夏王窦建德
  谥闵皇帝,其孙杨侗谥为世祖明皇帝。《全隋诗》录存其诗40多首。
  http://baike.baidu.com/subview/59719/5064817.htm?fromtitle=%E9%9A%8B%E7%82%80%E5%B8%9D&fromid=62761&type=syn
の方が、遙かに的を射ている。なかなか正しい歴史認識は難しい。

○揚州の京杭大運河を眺めながら、遙か昔を思い遣ると、李白の「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」詩を思い出した。李白に黄鶴樓で見送られた孟浩然は揚州の廣陵を目指したと言う。武昌の黄鶴樓から揚州の廣陵までは、およそ600劼曚匹任△襦L匚請海歪更召魏爾蝓∈―茵⇒判を訪れている。