王安石:金陵懷古(其四) | 古代文化研究所

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○「金陵懷古」と題する詩は、数多く存在する。前回、司空曙の「金陵懷古」を案内した。今回、紹介するのは、王安石の「金陵懷古(其四)」である。

○王安石の「金陵懷古」詩は、連作で、次の四首がある。

  《金陵懷古四首·其一》
    霸祖孤身取二江  子孫多以百城降。
    豪華盡出成功後  逸樂安知與禍雙。
    東府舊基留佛剎  後庭餘唱落船窗。
    黍離麥秀從來事  且置興亡近酒缸。

  《金陵懷古四首·其二》
    天兵南下此橋江  敵國當時指顧降。
    山水雄豪空復在  君王神武自難雙。
    留連落日頻回首  想象餘墟獨倚窗。
    卻怪夏陽才一葦  漢家何事費罌缸。

  《金陵懷古四首·其三》
    地勢東回萬裡江  雲間天闕古來雙。
    兵纏四海英雄得  聖出中原次第降。
    山水寂寥埋王氣  風煙蕭颯滿僧窗。
    廢陵壞冢空冠劍  誰復沾纓酹一缸。

  《金陵懷古四首·其四》
    憶昨天兵下蜀江  將軍談笑士爭降。
    黄旗已盡年三百  紫氣空收劍一雙。
    破堞自生新草木  廢宮誰識舊軒窗。
    不須搔首尋遺事  且倒花前白玉缸。

○どれも佳詩だが、ここでは、王安石の「金陵懷古」から、『其四』を取り上げて案内したい。

  【原文】
      金陵懷古(其四)
        王安石
    憶昨天兵下蜀江
    將軍談笑士爭降
    黄旗已盡年三百
    紫氣空收劍一雙
    破堞自生新草木
    廢宮誰識舊軒窗
    不須搔首尋遺事
    且倒花前白玉缸

  【書き下し文】
      金陵懷古(其四)
        王安石
    憶へば昨ふ、天兵の蜀江を下り、
    將軍は談笑す、士の爭ひ降るを。
    黄旗は已に盡き、年は三百、
    紫氣は空しく收む、劍一雙。
    破堞に新たな草木の自生し、
    廢宮に舊軒の窗を誰か識る。
    須らく首を搔きて、遺事を尋ぬべからず、
    且に倒れた花の前に、白玉缸。

  【我が儘勝手な私訳】
    想えば嘗て皇帝の軍隊が蜀から長江を下り、
    金陵へと向かったが、呉軍は戦うこともなく降った。
    金陵に、そのような戦乱が無くなって三百年を越え、
    皇帝が金陵にわざわざ軍隊を派遣することも無くなった。
    金陵城上の歯状の女墙には新たに自然と草木が生え、
    廃墟と化した金陵宮城の窓辺には、今では誰が住んで居たかも判らない。
    当然、よくよく考えて、昔の金陵のことを尋ね求めなくてはならない、
    当に今、風に倒された花の前に、昔の立派な白磁器を見るように。

○王安石(1021~1086)は、北宋の人である。六朝時代に栄華を誇った金陵は、当時、地方都市の一つに過ぎなかった。ただ、王安石は、もともと、江西省撫州臨川出身で、江南金陵は馴染みのある土地柄で、王安石は地方役人として、生涯の大半を金陵で過ごしている。

○ある意味、金陵は王安石にとって、第二の故郷みたいなところでもあった。王安石の「金陵懷古」詩には、そういう詩人の金陵に対する哀惜と愛情が遺憾なく述べられている。

○意外に、王安石が敬虔な仏教徒であったことにも留意する必要があろう。浙江省あたりの諸寺を参詣し続けているが、これまで、普陀山や雪竇山などで、王安石の詩碑を目にしている。
  ・書庫「普陀山・洛迦山」:ブログ『王安石:遊洛迦山』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/36916541.html
  ・書庫「寧波五歩:雪竇山」:ブログ『王安石:千丈岩瀑布』
  http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/38615592.html

○南京は王安石の墓所でもある。中国の検索エンジン百度『百度百科』が案内する「王安石墓」は、次の通り。

      王安石墓
  【人物简介】
   北宋一代名相、杰出的政治家、文学家、思想家、改革家王安石(一零二一至一零八六),字介甫,
  晚号半山。小字獾郎,封荆国公,世人又称王荆公。北宋临川(今江西东乡县上池村)人。十七岁那年
  因父亲升任江宁府(今南京)通判,举家迁来南京。五年后考中进士,后在南京三任知府,两度守孝,
  二次罢相后隐居江宁府城东半山园,病死于钟山,葬钟山南麓东三里,原宝公塔与草堂寺之间。宋时南
  京地位较低,六朝时期那样的厚葬已不盛行。王安石墓前有华表、坟庵,两侧有树木拱抱。王安石家人,
  除父亲王益和大哥王安仁葬牛首山外,其生母吴氏,弟王安国、王安礼,子王雱也葬于钟山南麓。明初,
  钟山南麓独龙阜玩珠峰被朱元璋选为陵寝之地后,靠近陵寝的蒋山寺宝公塔、八功德水等古迹被迁走。
  王安石及其家族墓被迁走。一说是迁至麒麟门,另一说是迁回老家江西。
  【文献资料】
   据文献记载,正德四年(一五零九),太监石岩为自己建墓时缺砖,故拆了附近的一座古墓,一看墓
  志才知道是王安石墓,可惜文献中没有留下墓葬所迁位置的线索。另据讯,民国初年,江宁麒麟门外发
  现一座古墓,墓志上写:安石三莅江宁,卜居钟山,子姓兄弟,多著籍焉。考古专家认为,先后在南京
  生活二十多年,从这点来看,王安石及其家族墓可能在明初迁至麒麟门外的说法比较令人信服。但麒麟
  门并没有发现多少文物线索,因此不排除迁往江西老家的说法。据王氏家谱记载,明洪武年间营建孝陵
  时,王安石墓被迁葬到江西临川月塘。
  http://baike.baidu.com/link?url=yjeHhSVleqJkENy2BEDXgj86g_a8muDjrQQm08lFyKkQAuu9JFqcdh8hthQGWj1UT3IPBa8ZxBjRKayGk_wdYa

○今回の南京訪問では、時間が無くて、王安石墓参詣は成らなかった。