南京長途汽車東站 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○狮子山閲江楼へ着いたのが10時50分頃で、南門から登り、ゆっくり閲江楼を見物していたら、12時を過ぎていた。それほど閲江楼からの眺望は素晴らしい。

○そろそろ南京長途汽車東站へ行き、揚州へ向かわなくてはならない。そう思って閲江楼を後にすることとした。閲江楼脇の案内図を見ると、閲江楼には南門の他に、東へと向かう道がある。折角なら、東の方へ出てみようと思い、その道を辿った。

○これがとんでも無い間違いで、下に下って行ったら、道が左右に分かれていた。それで左へ進んだら、何処までも城壁が続いていた。登り口があったので城壁に登ってみると、城壁の外は堀になっていて、何処にも橋が見えない。これでは外に出ることが出来ない。

○それで仕方無く引き返して、今度は右へと進んだ。その道が結構長かった。やっと出口らしきところに出て、駐車場が存在した。城壁をくぐって、外に出ると、今度は左方向に橋が架かっているのが見えた。その橋へ向かって歩く。

○つまり、城壁を挟んで、内と外とに周回道路が走っていて、ぐるりと回らないと外へ出られない仕組みになっていた。この日、鶏鳴寺から玄武湖へと歩き、更に玄武門まで歩いていた。また、狮子山閲江楼へも歩いて登ったりして、随分疲れていた。それで、ここでこのように巡回させられるのは、大変辛かった。

○橋の手前では、釣り人が釣りを楽しんでいた。仕掛けは、日本のヘラブナ釣り仕掛けみたいなものであった。ただ、撒き餌を打たないので、なかなか釣れる様ではない。疲れていたので、しばらく釣りを眺めて休んだ。

○百度地図で見ると、この橋は醒獅橋と言うようである。その醒獅橋を渡って、ようやく閲江楼の外に出ることが出来た。対岸は城河南路と言う。そこでタクシーを拾おうと思った。

○しばらく待つが、なかなかタクシーが来ない。来ても乗車している車ばかりである。それで左方向の鄭和北路まで歩いて行った。鄭和北路の方が道が大きいのである。そちらの方が車の通行量が多かった。

○鄭和北路で、何とかタクシーを拾うことが出来て、南京長途汽車東站へと向かう。閲江楼から南京長途汽車東站までは、およそ10劼任△襦

○運転手さんは親切な方で、南京について、いろいろ教えて下さった。タクシーも変わった形の車で、小型ワゴンのような、クラシックカーのような新しい車であった。車高が高いので、見晴らしが良い。

○写真記録を見ると、13時14分に南京駅前を通過している。南京駅から3劼曚廟茲貌邉?硬啜ゼ崚趁襪存在した。南京長途汽車東站は、真新しい大きなバスセンターであった。

○お世話になった運転手さんに御礼を述べて下車。そのまま真っ直ぐ、集票処へと向かう。幸い、13時45分発、揚州行きの切符を買うことが出来た。

○まだ、昼食を食べていない。南京長途汽車東站に、KFC(ケンタッキーフライドチキン)があったので、そこで昼食を取った。南京長途汽車東站滞在は、20分くらいだった。

●今回の旅行で、南京滞在は、2013年10月16日10時17分から、17日13時45分までの丸一日に過ぎない。南京には、見所が多いし、とても一日で見尽くせるものではない。再度、南京を訪れ、次回は時間を掛けてゆっくり回りたい。

●それでも、南京で得たものは大きい。何しろ、南京は六朝古都なのである。六朝時代(222年 - 589年)に、ここは中国政治文化の中心であった。

●意外に言及されていないことだが、六朝時代に中国と日本とは、大いに通交していたことを理解する。その端緒が「三国志」に記録されている。『三国志』魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条(日本での通称:「魏志倭人伝」)を読むと、そのことが判る。

●「三国志」の編者、陳寿が、
  ・計其道里當在会稽東冶之東。
  ・所有無與儋耳朱崖同。
とわざわざ記録する意味を、なかなか日本人は理解出来ない。おそらくそれは、日本で「三国志」を読む限り、理解出来ないことである。『中国のことは中国に習え』と言うのは、当たり前のことである。中国で、『三国志』魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条(日本での通称:「魏志倭人伝」)を読むと、魏国との通交の前に、倭国と呉国との間に、盛んに通交が行われていたことを理解する。

●これまで5回、寧波を訪れている。倭国と中国との通交の中心が寧波であることは間違いない。その寧波を理解しないで、倭国と中国との通交の理解はあり得ない。

●『計其道里當在会稽東冶之東』にしたところで、意味するところは、呉国と倭国の通交以外に考えられない。その時代に、南京が呉国の中心であった。それでどうしても南京を訪れる必要性を感じて、今回訪れた。

●『所有無與儋耳朱崖同』の意味することろも大きい。それは中国の伝統的な倭国認識がここに存在する。それは、『倭国は百越の一国である』と言う認識である。つまり、百越の南端が『儋耳・朱崖』であり、百越の東端が倭国であると言うことを意味する。陳寿は、『三国志』魏書・巻三十・烏丸鮮卑東夷伝・倭人の条(日本での通称:「魏志倭人伝」)で、そういうふうに書いているのだが、それを理解することは容易ではない。

●今回、普陀山から寧波を経て南京へやって来たので、南京滞在は僅かな時間でしかなかった。次回、時間を掛けて、ゆっくり歩くしかない。南京には見るべきものが多すぎて困る。