水天宮 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○神埼荘の姉川クリーク・横武クリーク・直鳥クリークを見学した後、国道264号線を走り、久留米市瀬下町に鎮座まします水天宮へ向かった。直鳥クリークの存在する神埼市千代田町直鳥から久留米市瀬下町の水天宮まではおよそ15劼曚匹任△襦

○これまで数回、水天宮にはお参りしている。水天宮は何とも気になる神社である。インターネットでは、全国総本宮水天宮のHPが存在し、その「御祭神・由緒」には、次のように載せる。

      水天宮
  【御祭神】
     ・天御中主神
     ・安徳天皇
     ・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)
     ・二位の尼(平時子)
  【由来】
   寿永四年(西暦1185年)、三月二十四日 壇ノ浦の戦の後、高倉平中宮に仕えていた官女 按察使
  局(あぜちのつぼね)伊勢は千歳川(現筑後川)の辺り鷺野ヶ原(さぎのがはら)に遁れ来て初めて
  水天宮を祀った。この頃は未だ筑肥の界も明らかでなくただ荒漠たる原野であったという。今日、川
  を隔てて下野村があるが、近くの鷺ヶ鼻と言う地名は当時の古名が残ったものであると言われる。
   伊勢は後に剃髪して名を千代と改め、里人に請われるままに加持祈祷など行っていたが、御霊験の
  あらたかにして、尊崇するもの日増しに多くなり尼御前と称え慕い社名を尼御前神社と呼ばれるに至
  った。
   その頃中納言平知盛卿の孫(従四位少将平知時の四男右忠すけただ)肥後より千代女を訪ね来てこ
  れを養いその後嗣とした。千代女逝去の後、里人その墓を営み松を植えて千代松明神とあがめ奉った。
  同女は大和国石上布留神社(現石上神宮)の神官の娘にして、墳墓は久留米市内株式会社アサヒコー
  ポレーションの正門前に在り、奥津城祭(墓前祭)は毎年春に奉仕されている。
   当宮は古来農業、漁業、航海業者間に信仰が篤いのみならず、子供の守護神、安産の神として或い
  は病難、火災などの除災招福の御霊験高きを以て聞こえ、畏くも明治天皇御降誕の砌、孝明天皇は当
  宮へ御祈誓遊ばされた。
   かくの如く御霊験あらたかなるを以て明治元年十月三日、禁裏御祈祷所(勅願所)に仰せ付けられ
  た名社である。

○本来、水天宮は、筑後川をご神体とする川の神を祀る神社だったのではないだろうか。神社の由来記にもあるように、元々は、対岸の下野村鷺野ヶ原(さぎのがはら)が原籍地であるような気がしてならない。下野村は、現在、佐賀県鳥栖市下野町に当たる。

○そこは神埼荘と密接な関係にあった。それで、現在のように、安徳天皇・高倉平中宮・二位の尼を祀るようになったと考えれば納得できる。

○もともと、九州一帯は平家勢力の強い土地柄であった。それが一転して源氏に一蹴されたのが源平合戦である。九州の歴史を掘り起こすと、各地に平家の名残が見えて来る。

○水天宮にお参りした日は11月9日で、境内には七五三詣での、子供連れの参拝客が数多く見掛けられた。普段、ひっそりとしている境内も11月は賑やかなふうであった。

○水天宮の隣は、すぐ筑後川である。上記水天宮由来記にもあるように、嘗て、筑後川は千歳川と呼ばれた。境内には、軍艦千歳の慰霊碑も祀る。私が最初に水天宮に参詣したのは、この慰霊碑に詣でるためであった。

○軍艦千歳は1944年(昭和19年)10月25日、レイテ沖海戦で沈没、乗組員の多くを喪っている。千歳に乗船していた私の父は幸運にも生還した。そういう意味で、私には懐かしい社である。亡くなった父に代わり、久し振りに水天宮に代参して来た。