日本の辯才天信仰 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○まだまだ観音菩薩信仰について述べる必要を感じるのだけれども、この書庫は『寧波漫歩』であるのだから、観音菩薩信仰については、このあたりで一応打ち切るしかない。

○普陀山を訪れる前から、普陀山が観音菩薩信仰の聖地であることは理解していた。ただ、日本に観音菩薩信仰がもたらされる以前に、中国から日本に辯才天信仰がもたらされていることは、はっきりしている。それも観音菩薩信仰同様、おそらく、舟山群島を通じてもたらされたものと思われる。

○今回、舟山群島・普陀山を訪れた目的はそのことにあった。舟山群島・普陀山を訪れて、判ったことは普陀山には、辯才天信仰の痕跡がほとんど見られないことである。

○このことは、ある程度、想像していたことでもある。何故なら、日本に於いても、辯才天信仰の地は、ほとんど観音菩薩信仰に取って代わられているからである。物事にいい加減な日本に於いてさえそうである。革命を信奉する中国に辯才天信仰がそれほど残されているとは考えていなかった。

○念の為、 「ウィキペディアフリー百科事典」が記載する『辯才天』と、中国の検索エンジン『百度(バイドゥ、Bǎidù)』が記載する『辯才天』とを併記して考えてみたい。

○「ウィキペディアフリー百科事典」が記載する『辯才天』は以下の通り。

      弁才天
   弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴ
  ァティー(Sarasvatī)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名である。
  【概要】
   経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では後に財宝神としての性格が付与され、
  「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い。弁天(べんてん)とも言わ
  れ、弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称されることが多い。
   本来、仏教の尊格であるが、日本では神道の神とも見なされ「七福神」の一員として宝船に乗り、
  縁起物にもなっている。仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と同一視されることがある。
   また、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である、市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視され
  ることも多く、古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭って
  いるところが多い。
  【表記】
   「サラスヴァティー」の漢訳は「辯才天」であるが、既述の理由により日本ではのちに「辨財天」
  とも書かれるようになった。「辯」と「辨」とは音は同じであるが、異なる意味を持つ漢字であり、
  「辯才(言語・才能)」「辨財(財産をおさめる)」を「辯財」「辨才」で代用することはできない。
   戦後、当用漢字の制定により「辯」と「辨」は共に「弁」に統合されたので、現在は「弁才天」ま
  たは「弁財天」と書くのが一般的である。
  【像容】
   原語の「サラスヴァティー」は聖なる河の名を表すサンスクリット語である。元来、古代インドの
  河神であるが、河の流れる音や河畔の祭祀での賛歌から、言葉を司る女神ヴァーチェと同一視され、
  音楽神、福徳神、学芸神、戦勝神など幅広い性格をもつに至った。像容は8臂像と2臂像の2つに大別
  される。
   8臂像は『金光明最勝王経』「大弁才天女品(ほん)」の所説によるもので、8本の手には、弓、
  矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・投げ縄)を持つと説かれる。その全てが武
  器に類するものである。同経典では弁才・知恵の神としての性格が多く説かれているが、その像容は
  戦神としての姿が強調されている。
   一方、2臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼
  羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え、『大日経』では、妙音天、美音天と呼ばれる。元のサラス
  ヴァティーにより近い姿である。ただし、胎蔵曼荼羅中に見える2臂像は、後世日本で広く信仰され
  た天女形ではなく、菩薩形の像である。
  [日本における信仰と造像]
  【造像】
   日本での弁才天信仰は既に奈良時代に始まっており、東大寺法華堂(三月堂)安置の8臂の立像
  (塑像)は、破損甚大ながら、日本最古の尊像として貴重である。その後、平安時代には弁才天の作
  例はほとんど知られず、鎌倉時代の作例もごく少数である。
   京都市・白雲神社の弁才天像(2臂の坐像)は、胎蔵曼荼羅に見えるのと同じく菩薩形で、琵琶を
  演奏する形の珍しい像である。この像は琵琶の名手として知られた太政大臣・藤原師長が信仰してい
  た像と言われ、様式的にも鎌倉時代初期のもので、日本における2臂弁才天の最古例と見なされてい
  る。同時代の作例としては他に大阪府・高貴寺像(2臂坐像)や、文永3年(1266年)の銘がある鎌倉
  市・鶴岡八幡宮像(2臂坐像)が知られる。近世以降の作例は、8臂の坐像、2臂の琵琶弾奏像共に多
  く見られる。
  【習合】
   中世以降、弁才天は宇賀神(出自不明の蛇神、日本の神とも外来の神とも)と習合して、頭上に翁
  面蛇体の宇賀神像をいただく姿の、宇賀弁才天(宇賀神将・宇賀神王とも呼ばれる)が広く信仰され
  るようになる。弁才天の化身は蛇や龍とされるが、その所説はインド・中国の経典には見られず、そ
  れが説かれているのは、日本で撰述された宇賀弁才天の偽経においてである。
   宇賀弁才天は8臂像の作例が多く、その持物は『金光明経』の8臂弁才天が全て武器であるのに対
  し、新たに「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより
  強くなっている。
   弁才天には「十五童子」が眷属として従うが、これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より
  十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれ、平安風童子の角髪(みずら)
  に結った姿をとる。十六童子とされる場合もある。
  【信仰】
   近世になると「七福神」の一員としても信仰されるようになる。中世において、大黒天・毘沙門
  天・弁才天の三尊が合一した三面大黒天の像を祀った記録があり、大黒・恵比寿の並祀と共に、七福
  神の基になったと見られている。
   また、元来インドの河神であることから、日本でも、水辺、島、池、泉など水に深い関係のある場
  所に祀られることが多い。 そのため弁才天は、日本土着の水神や、記紀神話の代表的な海上神であ
  る市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、神社の祭神として祀られることが多くなった。
   「日本三大弁才天」と称される、竹生島・宝厳寺、宮島・大願寺、天川村・天河大弁財天社は、い
  ずれも海や湖や川などの水に関係している(いずれの社寺を三大弁才天と見なすかについては異説が
  あり、その他には、江ノ島・江島神社などがある)。
   弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治
  の神仏分離の際に多くは神社となった。元々弁才天を祭神としていたが現在は市杵嶋姫命として祀る
  神社としては、奈良県の天河大弁財天社などがある。神奈川県の江島神社は主祭神を宗像三女神に改
  め、弁才天は摂社で祀られる。
   弁才天は財宝神としての性格を持つようになると、「才」の音が「財」に通じることから「弁財
  天」と書かれることが多くなった。鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社はその典型的な例で、同神社境内
  奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰がある。
   以上のように、近世以降の弁才天信仰は、仏教、神道、民間信仰が混交して、複雑な様相を示して
  いる。

○およそ、日本に於ける辯才天信仰の概要とその歴史は、「ウィキペディアフリー百科事典」が記載するところとなるのではないか。本ブログでは、
  ・書庫『熊野から天川村・吉野・国中への旅』
  ・書庫『竹生島』
  ・書庫『奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)』
  ・書庫『安芸・宮島・弥山』
の中で、「日本三大弁才天」と称される、竹生島・宝厳寺、宮島・大願寺、天川村・天河大弁財天社について言及しているので、参照されたい。

○「日本三大弁才天」を訪れてみると判ることだが、「日本三大弁才天」のいずれもが現在は観音信仰の影響下にある。天川村・天河大弁財天社は現在そうではないと言えるかも知れないが、明治の廃仏毀釈までがそうであったから、今なおその影響は大きい。それは神奈川県の江島神社にしたところで同じである。

○ある意味、私たちが訪れる京都や奈良の多くの寺は観音信仰の寺である。それらの寺の中で、辯才天信仰は細々と生き存えている。

○あるいは、天川村・天河大弁財天社や、神奈川県の江島神社のように、祭神そのものが変容させられてしまっている。何とも悲しい辯才天信仰の現状である。

○しかし、「日本三大弁才天」を訪れると、原初の辯才天信仰の様子がおぼろげながら見えてくる。日本の辯才天信仰の発祥の地が鹿児島県三島村硫黄島であることは間違いない。その証拠に、「日本三大弁才天」の全てに、硫黄島の痕跡が認められるからである。

○その硫黄島に辯才天信仰をもたらしたのは、中国舟山群島以外に考えられない。だから、中国舟山群島に嘗て辯才天信仰が存在したと考えるわけである。その中国に於ける辯才天信仰については、次回案内したい。