「羽犬塚」地名の由来 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○JR九州鹿児島本線の駅に、羽犬塚駅と言う駅がある。ずっと前にここの駅前を通った時、駅前に風変わりな犬の銅像が建っているのを見付けた。それには、以下のような案内文があった。

      「羽犬塚」地名由来
   天正十五年(一五八七年)豊臣秀吉は九州進軍の折り、
  この地に於て両翼の犬との死に出合い、その関りで弔に
  塚を建てた。(愛犬説暴犬説の諸説あり。)
   それが現在市内宗岳寺境内にある犬の塚である。これ
  以来郷土の誇となる地名の「羽犬塚」が呼び使われる様に
  なった。
   今回、筑後ライオンズクラブ結成三十周年の記念事業と
  して由来を物語る「羽犬の像」を建立した。
      平成三年四月吉日
          筑後ライオンズクラブ寄贈

○羽犬塚駅前には、他にも羽犬伝説の案内板が設置してある。

      羽犬伝説
   筑後市内には、いくつかの「羽犬」のモニュメントが
  点在しています。
   羽犬塚の由来とされるこの羽犬には、約四百年前から
  語り継がれている「伝説」があるのです。
  【伝説 
   ひとつは、昔この地に人や家畜を襲い、住民から恐れられていた
  どう猛な犬がいたというものです。
   天正15年(1587年)、天下統一をめざす豊臣秀吉が九州遠征
  した際、この羽犬によって行く手を阻まれ、大軍を繰り出しやっとの
  思いで退治しました。
   そこで秀吉は、羽犬の賢さと強さに感心し、この犬のために塚を
  つくり丁寧に葬ったというものです。
  【伝説◆
   もうひとつは、九州遠征に来た秀吉が、羽が生えたように跳び回る
  犬を連れ、大変かわいがっていたというものです。
   しかしその犬は、この地で病気にかかり死んでしまいました。秀吉は
  悲しみに暮れ、弔うために塚をつくり葬ったとされています。

   今でも宗岳寺には、羽犬を弔ったとされる塚が残されていて、静かに
  この町の時の流れを見守っています。
   あなたも歴史のロマンを感じながら散策してみませんか。

○案内板の横には、この地に存在する羽犬像として、
  ・県税事務所前
  ・羽犬塚小前
  ・市民の森公園 羽犬像
の写真が紹介されている。ここでは、それほど、羽犬が愛されていることが判る。

○前々からこの地名由来が気になって仕方がなかった。非常にほほえましい郷土の愛話に水を差すようで、申し訳ないのだが、いくら何でも羽の生えた犬など、考えられない。想像するに、寺のお坊さんの殺生を禁じ、命あるものを大切にする法話あたりから出たものではないだろうか。

○「Yahoo!百科事典」には、『羽犬塚(はいぬづか)』について、以下のように案内する。

      羽犬塚(はいぬづか)
  福岡県筑後(ちくご)市の中心地区。旧羽犬塚町。古来交通の要衝で、江戸時代は九州街道の宿場町
  として発達、現在は南北通りの旧町と東西通りの新町からなり、鹿児島本線羽犬塚駅の北部には製
  粉、機械、製材などの工場も立地している。国道209号と442号が交差する。地名の由来は、島津氏を
  攻める途中の豊臣(とよとみ)秀吉軍を苦しめた、羽の生えた怪犬の武勇をたたえて塚を築いたこと
  による、ともいう。羽犬塚駅前に、この羽犬のモニュメントがある。

○『羽犬(はいぬ)』地名は、おそらく、沖縄方言から派生したものではないだろうか。沖縄八重山諸島では、『南の島』のことを『ぱいぬしま』とか『ぷしぃぬしま』、『はいぬしま』と呼ぶ。古い時代に、何かの縁で、この地名が羽犬塚あたりに定着したものと思われてならない。それは四百年前などではなくて、相当古い時代のことと推測される。

○意外に、筑後地方には南島文化が根強い。おそらく『羽犬(はいぬ)』地名もそういうものの一つであろう。その後、南島文化の意識が薄れて、意味不明の地名だけが残されている。そんな気がしてならない。これからもっと検証すべき問題である。

○そんなことを考えさせたのは、下井葉子の「はいぬしま」と言う小説である。1995年に刊行された本だが、当時、羽犬塚駅を初めて訪れ、そんなことを思った。随分、昔の話である。

○先日、たまたま、佐賀空港に行く際、羽犬塚駅近くを通った。それで、駅に立ち寄り、羽犬像の写真を撮って来た。