陳寿傳 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○「三国志」を書いた陳寿(233~297)については、前に本ブログ、
  ・書庫:三国志を読む
で、書いているとばかり思っていたら、何も書いていないことに気付いた。それで、今回は、陳寿傳について、述べておきたい。

○三国志を書いたのは陳寿と言う歴史家である。陳寿については、「晉書」卷八十二、列傳第五十二、『陳壽王長文虞溥司馬彪王隱虞預孫盛幹寶鄧粲謝沉習鑿齒徐廣』傳に詳しい。

【原文】
 陳壽、字承祚、巴西安漢人也。少好學、師事同郡譙周、仕蜀為觀閣令史。宦人黃皓專弄威權、大臣皆曲意附之。壽獨不為之屈。由是屢被譴黜。遭父喪、有疾。使婢丸藥。客往見之、鄉黨以為貶議。及蜀平、坐是沈滯者累年。司空張華愛其才、以壽雖不遠嫌、原情不至貶廢、舉為孝廉、除佐著作郎、出補陽平令。撰「蜀相諸葛亮集」、奏之。除著作郎、領本郡中正。撰魏吳蜀「三國志」、凡六十五篇。時人稱其善敘事、有良史之才。夏侯湛時著「魏書」、見壽所作、便壞己書而罷。張華深善之、謂壽曰「當以『晉書』相付耳。」其為時所重如此。或雲丁儀、丁暠有盛名于魏、壽謂其子曰、「可覓千斛米見與、當為尊公作佳傳。」丁不與之、竟不為立傳。壽父為馬謖參軍、謖為諸葛亮所誅、壽父亦坐被髡、諸葛瞻又輕壽。壽為亮立傳、謂亮將略非長、無應敵之才、言瞻惟工書、名過其實。議者以此少之。張華將舉壽為中書郎、荀勖忌華而疾壽、遂諷吏部遷壽為長廣太守。辭母老不就。杜預將之鎮、複薦之於帝、宜補黃散。由是授禦史治書。以母憂去職。母遺言令葬洛陽、壽遵其志。又坐不以母歸葬、竟被貶議。初、譙周嘗謂壽曰、「卿必以才學成名、當被損折、亦非不幸也。宜深慎之。」壽至此、再致廢辱、皆如周言。後數歲、起為太子中庶子、未拜。元康七年、病卒、時年六十五。梁州大中正、尚書郎范頵等上表曰、「昔漢武帝詔曰、『司馬相如病甚、可遣悉取其書。』使者得其遺書、言封禪事、天子異焉。臣等案、故治書侍御史陳壽作『三國志」、辭多勸誡、明乎得失、有益風化、雖文豔不若相如、而質直過之。願垂採錄。」於是詔下河南尹、洛陽令、就家寫其書。壽又撰「古國志」五十篇、「益都耆舊傳」十篇、余文章傳於世。

【書き下し文】
 陳壽、字は承祚、巴西(郡)安漢(県)の人なり。少きより學を好み、同郡の譙周に師事し、蜀に仕へて觀閣令史と為る。宦人の黃皓、威權を專弄し、大臣皆意を曲げて之に附ふ。壽獨り之が為に屈せず。是に由りて屢、黜を譴めらる。父の喪に遭ふに、疾有り。婢をして丸藥せさせしむ。客往きて之を見、鄉黨以て貶議を為す。蜀平せらるに及び、是に坐して沈滯する者累年。司空張華、其の才を愛しみ、以て壽の嫌遠からずと雖も、情を原ねて貶廢するに至らずとして、孝廉と為すを舉げ、佐著作郎に除せられ、出でて陽平令に補せらる。「蜀相諸葛亮集」を撰し、之を奏す。著作郎、領本郡中正に除せらる。魏吳蜀「三國志」、凡そ六十五篇を撰ず。
 時の人其の敘事に善く、良史の才有りと稱す。夏侯湛、時に「魏書」を著はすも、壽の作る所を見、便ち己の書を壞して罷む。張華深く之を善しとし、壽に謂ひて曰はく、「當に『晉書』を以て相付すのみ。」と。其の時の重する所と為ること此くの如し。或いはいふ、丁儀、丁暠雲んにして盛名魏に有り。壽、其の子に謂ひて曰はく、「千斛米を覓め見るべけんや、當に尊公の為に佳傳を作すべし。」と。丁之に與せず、竟に傳を立つるを為さず。壽の父は馬謖の參軍たり、謖、諸葛亮の誅する所と為り、壽の父も亦た坐して髡せらる。諸葛瞻も又、壽を輕んず。壽、亮の為に傳を立つるに、亮、將略に長ずるに非ず、應敵の才無しと謂ひ、瞻は惟だ書に工みなるのみにして、名は其の實に過ぐと言ふ。議する者此を以て之を少とす。
 張華、將に壽を舉げて中書郎に為さんとするに、荀(勗)、勖めて華を忌み、壽を疾み、遂に吏部を諷めて壽を遷して長廣太守と為す。母の老に辭して就かず。杜預、將に之を鎮めんとして、複び之を帝に薦むるに、宜しく黃散に補すべしと。是に由りて禦史治書を授く。母憂を以て職を去る。母の遺言は洛陽に葬るを令すれば、壽、其の志を遵ぶ。又母を以て歸葬せざるに坐して、竟に貶議せらる。初め、譙周嘗て壽に謂ひて曰はく、「卿は必ず才學を以て名を成さん、當に損折せらるるべきも、亦不幸に非ざるなり。宜しく深く之を慎しむべし。」と。壽此に至りて、再び廢辱を致すも、皆周の言の如し。後數歲にして、起ちて太子中庶子と為るも、未だ拜せず。元康七年、病に卒す。時に年六十五なり。
 梁州大中正、尚書郎范頵等上表して曰はく、「昔、漢の武帝詔して曰はく、『司馬相如の病甚だなり、遣はして悉く其の書を取るべし。』と。使者其の遺書を得て、封禪の事を言ひ、天子焉を異とす。臣等案ずるに、故治書侍御史陳壽の作る「三國志」、辭に勸誡多く、得失を明らかにして、風化に益有り、文豔相如に若かずと雖も、質直之に過ぐ、願はくは採錄を垂たれんことを。」と。是に於いて詔を河南尹、洛陽令に下し、家に就いて其の書を寫す。壽は又、「古國志」五十篇、「益都耆舊傳」十篇、余の文章を撰し、世に傳はる。

【語釈】
  ・字ー通称。
  ・巴西(郡)ー益州巴西郡のこと。安漢(県)を中心とした一帯。巴郡が分割して設置された。
  ・安漢(県)ー現在の南充市。四川省北東部に位置する。
  ・譙周(199~270)ー三国時代、蜀の政治家であり、儒学者。字は允南。
  ・黜ー官位を下げる。追放する。廃止すること。
  ・鄉黨ー村里。同じ村の人。
  ・司空ー周代の官名。土地・人民をつかさどる。漢代では御史大夫を指す。
  ・張華(232~300)ー魏・晋の名将・学者。字は茂先。
  ・孝廉ー官吏特別任用制の一つ。推薦によって官吏に採用された。
  ・夏侯湛(243~291)ー晋の政治家・文学者。字は孝若。魏の皇族。
  ・馬謖(190~228)ー三国時代、蜀の武将。字は幼常。
  ・髡ー髡鉗城旦舂のこと。秦・漢代の刑罰。
  ・荀勗(?~289)ー魏・西晋の政治家。
  ・杜預(222~284)ー魏・西晋の政治家・学者。字は元凱。呉を滅亡させた。
  ・漢の武帝(紀元前156~87)ー前漢の第七代皇帝。諱は徹。光武帝とも言う。
  ・封禪ー天子の行うまつり。封は天をまつり、禪は地をまつる。
  ・司馬相如(紀元前179~117)ー前漢の文人。四川省成都の人。字は長卿。
  ※役職名は数多く存在し、煩雑になるので、ここでは敢えて省略した。

○ブログではルビが付かないので、読みづらいかもしれない。それで、一応、簡単な語釈を付けた。

○司馬遷の「史記」は、その最後に『太史公自序』を掲げて、自著について述べているが、「三国志」には、そういうものがない。

○ただ、「晋書」が編纂されたのは、648年のことで、陳寿が生きた三世紀から350年も過ぎてからのことになる。そういう意味では、陳寿傳は極めて曖昧な部分も存在する。それは現代で、ちょうど、江戸時代の松尾芭蕉を語るような話である。

○陳寿の生年は明らかにされていないが、没年は元康七年(297年)で、年六十五とあるから、逆算すれば生年は西暦233年となり、蜀暦であれば建興十一年、魏暦であれば太和七年、青龍元年となる。邪馬台国の女王卑弥呼が初めて魏に使いを送ったのは景初二年(238年)とあるから、「三国志」の著者陳寿と女王卑弥呼とは、ほぼ同時代の人物である。だから「魏志倭人伝」は、三世紀の日本を記す同時代の文献史料として貴重なものであることが分かる。

○陳寿の父が馬謖の參軍であったことも興味深い。「三国志演義」で有名な、『泣いて馬謖を斬る』の馬謖は、享年三十八歳である。馬謖が亡くなった二二八年当時、諸葛孔明は四十七歳。陳寿が生まれる五年前の話である。その時、陳寿の父は髡刑になったと言う。諸葛孔明が五丈原で亡くなった二三四年に陳寿はまだ一歳に過ぎない。

○陳寿が巴西(郡)安漢(県)の人であることも十分留意すべきであろう。安漢(県)は現在の南充市になる。もともと陳寿は蜀漢の人であり、同郷の政治家であり、儒家であった譙周に師事している。蜀漢が滅亡した二六三年、陳寿はまだ三十歳の働き盛りである。三十歳で国を失った陳寿の絶望感・虚脱感は想像するに余りあるものがある。

○その陳寿の才を高く評価したのが晋国の司空張華と言うのもまた興味深い。張華は劉放に取り立てられ、その娘を妻としている。劉放自身も相当の文人であったし、張華も文才にも恵まれ、「博物誌」をものしたほどの文人である。呉の陸機を世に出したのも張華である。その張華に評価されたほどの文才を陳寿自身が保持していたことは注目に値する。つまり、かつての敵国である呉の陸機(261~303)や蜀漢の陳寿は、そのまま歴史に埋もれる運命にあった。それを晋国の司空張華によって発掘された。当然、それに相当するだけのものを彼らが保持していたと言うことなのだろう。面白いことに陳寿と張華とは歳も一歳違いで、お互い相通じるものが存在したのかもしれない。

○だから、陳寿は最初から決して恵まれた著作環境に置かれていたわけではないし、その生きた時代もまたすさまじく混迷を極めた時代であった。

○「三国志」、『魏書』、『烏丸鮮卑東夷傳第三十』の最後に、

   評曰:史、漢著朝鮮、両越、東京撰録西羌。魏世匈奴遂衰、更有烏丸、鮮卑、
   爰及東夷、使譯時通、記述随事、豈常也哉。

の評語を載せる。「史記」や「漢書」が朝鮮・両越・東京・西羌などを紹介したのに対し、「三国志」が載せるのが、烏丸・鮮卑・爰及東夷であることを特記している。そしてそれは、魏国の時代に、『使譯時通、記述随事』ことであるとする。

○そう言う意味で、陳寿が「三国志」に載せる倭人傳は、『豈常也哉』と評するものであった。それが中国にとって、まさに、斬新且つ、革新的な記録であることは言うまでもない。

●適当な写真がないので、邪馬台国の風景から、薩摩国一の宮、枚聞神社のご神体、開聞岳山頂の写真を載せる。遠望されるのは桜島山。すぐ下に池田湖が見える。