「我は海の子」歌碑 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○先日、鹿児島市の祇園之洲にあるザビエル上陸記念碑を紹介したが、ザビエル上陸記念碑の後ろが広い芝生になっていて、その先はもう錦江湾らしかったが、芝生の先に何やら詩碑らしいものが見えたので、気になって見に行ってみた。

○碑は「我は海の子」歌碑であった。歌碑の左下に、

  海と郷土と音楽をこよなく愛する人々の志
  ここにみのる

とあって、この歌碑は『海と郷土と音楽をこよなく愛する人々』である、「我は海の子」歌碑建立実行委員会によって、平成12年に設立されたものであるらしい。

○右下には、「我は海の子」の由来書きがあった。

     「我は海の子」の由来
   文部省唱歌「我は海の子」の作詞者
  宮原晃一郎は、明治十五年、鹿児島市
  加治屋町に薩摩藩士の子として誕生した。
   十歳の時父の転勤で北海道に移住したが
  長じて小樽新聞社の記者であった明治四十一年
  幼い日、毎日のようにかよった故郷の海(錦江湾)
  の天保山をしのんで作詩した「海の子」が
  文部省新体詩懸賞募集に応募して
  佳作入選した。
   翌年国語読本に掲載され、続いて
  明治四十三年に読本唱歌として、音楽の教
  科書に「我は海の子」と題し採用されてから
  この歌は現在に至るまで、多くの人々に親しまれ
  国民的愛唱歌となって、広く歌われている。
   此処に文部省唱歌「我は海の子」の歌碑
  を建立し、作詞者宮原晃一郎の詩才を
  末永く後世に遺したいと思う。
    平成十二年七月二十日 海の記念日
    「我は海の子」歌碑建立実行委員会

○「我は海の子」なら、よく知っているし、小さいころ、歌った記憶がある。しかし、これまで、それが誰の作詩によるものであるかも知らなかった。また、それがどういうふうに私たちが知っている音楽となったのかも。

○『海と郷土と音楽をこよなく愛する人々の志』とは、もちろん作詩した宮原晃一郎であろうし、この歌碑を建てた人達を指すのであろう。

○高村光太郎に、『あどけない話』と言う詩がある。

      あどけない話
  智恵子は東京に空がないと言ふ、
  ほんとの空が見たいと言ふ。
  私は驚いて空を見る。
  桜若葉の間に在るのは、
  切つても切れない
  むかしなじみのきれいな空だ。
  どんよりけむる地平のぼかしは
  うすもも色の朝のしめりだ。
  智恵子は遠くを見ながら言ふ。
  阿多多羅山の上に
  毎日出てゐる青い空が
  智恵子のほんとの空だといふ。
  あどけない空の話である。

○智恵子は、『東京に空がないと言ふ』けれども、鹿児島市にも、『宮原晃一郎のほんとの海がない』気がしてならない。鹿児島市の海岸は何処も埋め立てられ、白砂青松の海岸線など、何処にもない。埋め立てによって得たものも多いけれども、失ったものも多い。

○たまたま、現在、東日本巨大地震が発生して、日本中大騒ぎになっている。本来、余程のことがない限り、人が海岸線に住まうことはなかった。そこは無人の浦の苫屋などが散在する場所であった。いわゆる緩衝地帯であったところに町が出来、多くの人が住んでいる。

○東京電力福島第一原子力発電所の事故にしたところで、同じだろう。本来、人が制御出来ないものを作って、大変な目に遭っている。それも、被害を被っているのは、さほど東京電力の恩恵に与っていない福島県の人々である。

○人智など取るに足りないものであることを「荘子」は教えてくれるけれども、それを悟ることはなかなか容易なことではない。昔の人はそういう英知の中で生活していたと思わずにはいられない。