如竹通り | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○安房の町中を県道78号線が南北に走っている。その県道が安房川を過ぎてすぐのところで、東西に走る通りと交差しているが、この通りがおそらく、安房の古くからのメインストリートなのではないか。通りに入ったすぐ右手には屋久島観光協会安房案内所が存在するし、通りには民宿や食堂、飲み屋などが建ち並んでいる。

○そのメインストリートのすぐ下に安房川に沿って大きな道が走っている。県道78号線はその上を走っているので、県道を通っていては気付くことがないかも知れない。この立派な通りの名が、「如竹通り」となっている。町中と港を繋ぐ通りである。

○如竹通りには、如竹廟が存在する。如竹廟は、まるで町中の小さい公園と言ったふうで、石碑やレリーフ、顕彰碑などがその中に建っている。如竹先生のお墓は、この如竹廟の中のお堂の中にある。それほど大きいお墓ではないのが、如何にも屋久聖人如竹先生のお墓としてふさわしい。

○如竹先生は、亡くなる時、町中に墓を建立することを自ら望んだらしい。それでこの地にお墓が建立されたのだと言う。別に如竹先生の住持した久遠山本佛寺にも如竹先生のお墓は存在するが、こちらは立派な墓石である。

○如竹廟の前は如竹通りとなっていて、目の前に安房川の清流が流れている。そして、如竹廟のすぐ上が安房の古くからのメインストリートで、如竹廟から屋久島観光協会安房案内所まで30歩もあれば着いてしまうのではないか。

○安房バス停で降りたら、左手に丘がある。バス停の目の前に階段があるからそこを登れば、そこが久遠山本佛寺で、晩年の如竹先生が住持していたところである。

○「麑藩名勝考」の著者、白尾國柱は国学者である。だから、「麑藩名勝考」には、仏寺に関する記録はほとんどない。それでも、白尾國柱は、「麑藩名勝考」巻七、益救島の項で、恕竹居士の項目を設け、詳細な如竹傳をものしている。

○「三国名勝図会」も詳細な「如竹翁傳」を載せているが、それは本来、伊地知季安の「漢学起源」に拠ったものであろう。伊地知季安の「漢学起源」は、巻四に、最も詳細な「如竹翁傳」を載せている。

○近年、屋久島を訪れる人は多い。その屋久島に生まれ、最も屋久島を愛したのが如竹先生である。それまで見向きもされなかった屋久杉の有用性に注目したのも如竹先生である。明治以降の乱伐によって、屋久杉が多大な被害を被ったことは事実である。しかし、屋久杉の有用性と明治以降の乱伐とは全く以て別問題である。それを混同して如竹先生を非難することは間違いである。

○屋久島に出掛けたら、是非、如竹通りへ赴き、如竹廟へ参拝されることをお勧めしたい。