宝島遊覧ー渡加羅・西海岸・観音洞 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○宝島西海岸からは、北に小宝島、南に上の子島・横当島・奄美大島が眺望出来、雄大な景色である。しかし、前にも触れたが、本当は、宝島から西に620劼如⊇山群島にたどり着くのが、宝島の存在意義ではないのだろうか。
○舟山群島の奥には、寧波の町が存在する。今でこそ、揚子江河口原に出現した上海が有名であるが、かっては、この辺りでは、寧波こそが交易港として知られていたのである。
○寧波から上海までは、グーグルアースで計測すると、直線で150劼任△蝓⊂絣いら船で揚子江を約300卅未襪函南京に到着する。
○中国四大古都の一つが南京である。三国志の時代、呉王孫権が建業を都としたのは、西暦229年のことになる。その建業が南京である。その後、東晋(317~419)も建康に都した。これも南京の地である。続く宋、斉、梁、陳(420~588)の都も建康であった。つまり、呉・東晋・宋・斉・梁・陳の六朝時代には、すべて都は南京に存在していたのである。
○南宋(1127~1279)の時代の都は臨安(杭州)である。臨安は南京よりさらに240劼曚鋲遒飽銘屬掘寧波の西140劼砲△襦
○明代になっても、1368年から1421年の間、南京は都として栄えた。その後(1421~1644)も、南京は明の副都であり続けた。
○そのような中国に直接渡ることが出来るルートが渡加羅の道である。このルートは相当古い時代に開拓されていたと思われる。日本側の最後の港が宝島であり、当時、宝島は潮待ち、風待ちの港として、大いに栄え、多くの人々が生活していたと思われる。
○以前に、本ブログでは、書庫「三島村・薪能『俊寛』」で、「硫黄島の向こうにー宇治群島・草垣群島ー」と題して、既に紹介済みであるが、 寛政七年(1785年)の「麑藩名勝考」では、巻之三、河邊郡加世田郷に、鵜路島・向島・草垣島について、次のように記している。
     【鵜路島】(亦の名は宇治、宇治も水の縁なれば、然るべし。)
   海東諸国記、作宇持島、周匝一里許、上平坦にして、漁船碇宿の艸舎あり。
     【向島】(ムコフ島)
   周匝三里許なれども、島根硝立して船を繋ぐべからず。只草木葱籠り。西土の珎禽多く渡り来る。
  此の二嶼加世田の属島、御崎の南に去ること四十里許、此の鵜路島にて漁師の詠める、
    唐舟か鹿の真似してうち通る手火矢無ければ見て過ごすなり
  (手火矢は鉄砲なり。唐船などのこの洋中を䑺通るは、牡鹿の青野原を駈けるが如く見ゆるとぞ。)
     【草垣島】(亦作草墻。海東諸国記、作草墻島。周匝一里許、鵜路島より十八里西北に在り。)
   此も加世田郷に属り。共に人住居するなし。只網師の止宿して大小魚を獲の要地なり。此の草垣島
  春夏の間も風吹きて、寒きこと冬の如し。唯酷暑の時、稍暖気を覚ふ。夕陽快く晴れの日、西北を望
  み視るに、朝鮮の地方、少女の黛引けるが如く海上に浮かび見ゆと語れり。
○つまり、宇治群島・草垣群島あたりからは、「唐船などのこの洋中を䑺通るは、牡鹿の青野原を駈けるが如く見ゆる」と言うのだ。宝島はそれよりもっと中国に近いわけであるから、当然、そのような情景が宝島からも遠望されることがあったに違いない。

○この宝島と中国との交流があったことに思いを馳せながら、宝島西海岸一帯を見渡すと、多くの屹立する奇岩を目にする。舞立(むうたち)・草立・二双などと面白い名前が、それぞれに付いている。神楽か舞踊から名付けられた名であろうか。
○舞立岩と草立岩の間に大間泊港がある。広い珊瑚礁の中の港である。港とは言っても、珊瑚礁の割れ目を利用した、極めて小さい港である。島から港までは一応舗装道路となってはいるが、通常に使用される港ではない。緊急避難港なのであろう。それでも小さい漁船くらいしか利用できない港である。
○大間泊港付近で、昼顔や浜木綿、アダンなど、多くの植物を見た。土地が良いのか、植物の勢いが他の場所より良い。また、波打ち際には、海から流れ着いたと思われる無数のゴミが散乱している。何処でもそうだが、海辺のゴミ問題は尋常ではない。こんなきれいな海でも、すっかりゴミに汚染されている。それこそ地球規模で対策しないと、そのうち世界中の海岸端は何処もゴミ溜になってしまう。
○大間泊港の上に、観音堂と言う宝島最大の鍾乳洞がある。天保十四年(1843年)刊の「三国名勝図会」には次のように記す。
      【岩窟】
   當島に一奇窟あり。屈曲して、深さ測るべからず。石鍾乳多く垂れ下がる。其の奥に支穴二あり。
  其の支穴の内に、又支穴許多ありといふ。又窟内廣さ一畦許の処あり。観世音、辨才天(郡司蔵助、
  船頭壽金天正十四年の銘を刻す)等の石像を安置す。往歳洞窟の奥に探り入りし者ありしに、唐土
  の古銭多くありしとぞ。
また、観音洞の前には案内板が設置されていて、以下の記述があった。
      【鍾乳洞(観音洞)】
   宝島には、およそ六つくらいの鍾乳洞があります。その中でもこの鍾乳洞(観音洞)が最も大き
  く、奥行きが60叩F?蠍?良婉瓩亡儔四佑魄唾屬靴心儔仔欧正面に向かって並んでいますが、
  ここは、この島に点在する上の宮・下の宮・平家堂と並び、島の信仰の中心的存在になっています。
  そのため住民は、この観音様を「カミサマ」として崇めています。
   この鍾乳洞(観音洞)からは、古代の湖州鏡(中国南宋・元代の鏡)1枚と古銭35枚(寛永通宝
  13枚・永楽通宝3枚・大観通宝3枚など)が発見されました。
   また、英国のスティブンソンが書いた小説「宝島」は、この島がモデルといわれ、かって海賊が
  ここをすみかにして、莫大な財宝を隠したという伝説があります。夢とロマンに満ちた所です。
              平成3年1月11日  十島村教育委員会
○宝島が海賊の島であったことを喧伝したのは、おそらく中国の人々であろう。相当古い時代から、中国の人々は和冦に悩まされ続けて来た歴史がある。それがイギリス人にも伝搬したものと思われる。