卑弥呼の里 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○大神神社参拝後、天理方面へ向かって国道169号線を走っていたら、箸墓の近くで、道路脇に写真のような立派な立て看を見付けた。桜井市の桜井ライオンズクラブの建てたものである。

○笠井新也が「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命」と言う論文を発表したのは、大正十三年(1924年)のことである。以来、箸墓は邪馬台国近畿説のシンボルマーク的存在となっている。近年、同じ桜井市の纒向遺跡の発掘が様々な話題を提供しているが、その多くは纒向遺跡を邪馬台国と見なしての発言である。

○上記の立て看には、2009年3月吉日との日付があるから、建てられたばかりのものであるらしい。真新しい看板ではあるけれども、肝心の卑弥呼が此処に存在したことはあり得ない。それは魏志倭人伝を読めば分かることである。全く根拠の無い立て看など建てて、何の意味があるのだろうか。

○『魏志倭人伝』に拠ると、卑弥呼は邪馬台国の女王であったらしい。その邪馬台国は、魏の帯方郡から「一万二千余里」の彼方に存在したとある。また、魏の帯方郡から末廬国(佐賀県唐津周辺)までの合計距離は魏志倭人伝に拠れば、ちょうど「一万余里」となっている。と言うことは末廬国(佐賀県唐津周辺)から邪馬台国までは「二千余里」しかないことになる。これではどう考えても近畿まで行くことは不可能だろう。そんな不可能なところに邪馬台国があり、卑弥呼が存在すると言う考え方が邪馬台国近畿説なのである。

○また、同じ「魏志倭人伝」には、次のような記事も存在する。

   参問倭地絶在海中洲嶌之上或絶或連周旋可五千余里
  [倭の地を参問するに、海中の洲嶌の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり、
   周旋すれば、五千余里ばかりなり。]

○つまり、当時の中国の魏が認識していた「倭地」は、「海中の洲嶌の上に絶在」する存在であり、「周旋すれば、五千余里ばかり」の範囲であったことは、これを読めば明らかなことである。「三国志・烏丸鮮卑東夷傳」では、韓の地を「方可四千里」と規定しているから、「周旋五千余里」とは、九州島以外に考えられない。まして、「周旋五千余里」内に、九州から近畿まで含むことなど、誰にも出来ない話であろう。

○分かるように、近畿に邪馬台国が存在したなどという説は、まるで根拠の無い話である。それでも、ここにはこういう立て看が堂々と建っている。ある意味、ほほえましい話である。知っていてこういう看板を建てるのであれば、結構だが、やはり、看板に嘘・偽りがあっては、良くないのではないか。この看板は小学生も見ている。せめて、「これはジョークです」くらいは必要だろう。

○また、このことは、倭迹迹日百襲姫命に対しても、随分失礼な話である。何の謂われも無いことを勝手に後世付与された倭迹迹日百襲姫命は多分、箸墓の中で怒っている。そうでなくてさえ、倭迹迹日百襲姫命は日本書紀で酷評されているのだから。