福寿山長善寺跡 | 古代文化研究所

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古代文化には、多くの疑問や問題が存在する。そういうものを日向国から検証していきたい。

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○先日、枕崎市桜山本町にある「史跡 長善寺跡」に出掛けてきた。ここに喜入氏累代の墓が存在すると聞いたからである。それにここ付近が旧鹿籠村の中心でもあったらしい。

○「枕崎市誌」に拠れば、喜入家始祖の島津若狭守忠広は島津氏第九代当主である島津忠国(1403~1470)の七男である。明応年間(1492~1500)に喜入に封ぜられた。以後、五世摂津守季久の時、鹿籠に移住。その後改易等に遭い、喜入氏として改めて鹿籠を封じ始めたのは、七世摂津守忠續の時からであると言う。

○福寿山長善寺はその喜入氏の菩提寺である。天保十四年(1843年)刊の「三国名勝図会」には以下のように記す。
  【福寿山長善寺】
   (領主館より子の方、二十八町半余)
   鹿籠村にあり。本府福昌寺の末にして、曹洞宗なり。本尊釈迦如来。
   初め喜入邑にあり。後今の地に移す。開基の年紀詳らかならず。

○同じ「三国名勝図会」では、旧蹟『山之城』の項で、喜入氏について詳述している。
  【山之城】
   (領主館より北の方、二十三町余)
   鹿籠村にあり。喜入季久以来の治所なり。初め喜入家始祖、島津若狭守忠広は、大岳公の第七男に
   て、明応中喜入に封ぜらる。第二世を摂津守頼久といふ。大岳公の第十男にて、指宿に封ぜらる。
   兄忠広の養子となり、喜入指宿を併せ領せり。第三世を摂津守忠誉といふ。忠弘の嫡子にて、頼久
   の嗣となり、喜入に居城す。指宿は頴娃某の為に奪はる。其の子摂津介忠儉、喜入を傳領す。其の
   子摂津守季久、喜入四十町、及び桜島赤水村、且つ鹿児島の内田上村、伊敷村、大口花北村等を食
   ひ、天正中、鹿児島以下散在の食地六十町を、公室に納れ、鹿籠闔地四十町を易賜はんを請ふ。邦
   君これを許さる。因て鹿籠喜入を併領せり。季久鹿籠に移居す。其の子式部太輔久道、喜入に居城
   す。文禄中改易の時、永吉に移封す。永吉に於いて病死す。子無くして、永吉は除せらる。久道の
   後嗣を摂津守忠續といふ。忠續は、季久の末男にて、幼より出家し、本府浄光明寺某の弟子僧とな
   り居りしを、貫明公の命を以て還俗し、鹿籠四十町を賜ひ、世々傳領して、今に至るといふ。

○山下に「史跡 福寿山長善寺跡」の案内板があって、石段を上がると墓地に達する。案内板には次のようにあった。
  【福寿山長善寺】
   長善寺は、第十七代領主喜入忠政が慶長六年(一六〇一)鹿籠に移って来た時、建てられたものと
   見られ、代々喜入家の菩提寺であった。この寺は元々禅寺で境内に喜入家の霊廟があった。山号を
   福寿山といい、禄高二十七石余りの郷内でも格式の高い寺であったが、明治二年の廃仏令により廃
   寺になった。なお、現在市営墓地前にある地蔵尊は、この寺の門前にあったものである。
                                    枕崎教育委員会

○鹿児島の歴史に不案内でよくわからないが、「第十七代領主喜入忠政」とは、本当だろうか。「三国名勝図会」に従えば、「摂津守忠續」ということになるけれども。それに忠續であれば第十七代ではなく、第七代だと思えるのだが。慶長六年であれば、第十七代と言うのは間違いではないか。

○この案内板を読んで、行政と言うのは、非道いと今更ながら痛感させられる。「明治二年の廃仏令により廃寺になった」と他人事みたいに記しているが、廃仏毀釈令を発したのもその同じ行政である。それはないだろう。枕崎の行政府は何の意識も無く、平気で廃仏毀釈令を発して、由緒正しい歴史ある寺院を廃絶に追い込んだ。それだけではない。徹頭徹尾寺院を破壊し尽くしている。全ては行政府の責任ではないだろうか。福寿山長善寺に関する限り、それは枕崎の行政府の責任であろう。せめて「現在市営墓地前にある地蔵尊」を元の福寿山長善寺に返却することくらいは行政の責務であると思うのだが。それに坊津一乗院の梵鐘も返却する責務が枕崎にはある。そんなものを戦利品みたいに飾る時代でもあるまい。地蔵尊も梵鐘もあるべき所にあって、はじめてその価値が見出せるのではないか。

○案の定と言うか、鹿児島の廃仏毀釈に遭った寺々がそうであるように、福寿山長善寺跡も荒れ放題であった。喜入氏累代の墓は、その後に建てられた新しい墓なども存在する中に、何の手入れもされているようではない。そんな中に何故か以下のような案内板が空しく建っていた。
  【市指定文化財】
  「喜入氏累代の墓」
   天正六年(一五七八年)鹿籠を領有することとなった喜入氏五代季久から十九代久博が版籍を奉還
   するまでの290年間の喜入氏累代の墓所である。喜入氏は島津氏の支族であったから墓石の形も
   島津氏のものとよく似ています。
                              平成三年三月
                                 枕崎市教育委員会

○これまで鹿児島で多くの寺院跡を訪れたが、今なお廃仏毀釈の爪痕が生々しく残ったままである。完全復元は無理だとしても、多くの文化財を放置したままの行政の姿勢が疑われてならない。文化財指定とは貴重な文化財を放置することなのだろうか。何もここ「喜入氏累代の墓」では守られていない。それに寺を失った墓地はすさまじきものそのものである。それもこれも全ては行政のなせるわざである。