○続けて魏志倭人伝を読む。ここでは主に、倭国の政治体制に関する記事が述べられる。
―?国より以北は特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。
(諸国)之を畏憚す。常に伊都国に国中を治す。刺史のごとき有り。
王使ひをして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、
郡使の倭国に及ぶや、皆津に臨みて捜露し、
文書賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
自女王国以北特置一大率検察諸国(15)
畏憚之。常治伊都国於国中有如刺史。(15)
王遣使詣京都帯方郡諸韓国(12)
及郡使倭国皆臨津捜露(10)
伝送文書賜遺之物詣女王不得差錯。(15 計67字 合計1170字)
●伊都国には一大率という機関があって、後の大宰府のような機関であったことが記述されている。このことは、明らかに邪馬台国が伊都国よりかなり離れた場所に存在した国であったことを示している。中国や韓国との通商や交易などは、伊都国を中心になされた。少なくとも北九州に邪馬台国があったのでは、わざわざこのような機関を置く理由がない。伊都国から投馬国まで水行二十日、さらに邪馬台国まで水行十日と陸行一日くらいの距離があることの証拠がここにも存在する。邪馬台国が同じ北九州に存在するのであれば、このような機関を置く理由は全くない。
○魏志倭人伝の続き。
下戸大人と道路に相逢へば、逡巡して草に入り、辞を伝へて
事を説くに、或いは蹲り或いは跪き両手は地に據り、
之が為に恭敬す。
対応の声は噫と曰ひ、比(声)は然諾のごとし。
下戸與大人相逢道路逡巡入草伝辞(15)
説事或蹲或跪両手據地、(10)
為之恭敬。(4)
対応声曰噫比如然諾。(9 計38字 合計1208字)
●この時代、すでに、倭国では身分制度も確立していたようで、身分の下位の者と上位の者との応対の様子が描かれている。どうやら、土下座の習俗の説明らしい。やはり、中国人には、奇異な習俗に映ったのであろう。
○更に、魏志倭人伝を読み続ける。
B兇旅颪亘棔∨鮹忙劼魄覆堂Δ醗戮掘⊇擦泙襪海伴携十年、
倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立して
王と為す。名は卑弥呼と曰ふ。鬼道を事とし能く衆を惑はす。
年已に長大なるも夫婿無く、男弟有りて佐けて国を治む。
王と為りしより以来見る者有る少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。
唯だ男子一人有り、飲食を給し、辞を伝へ、居処に出入す。
宮室楼観城柵厳かに設け、常に人有りて、兵を持し、守衛す。
其国本亦以男子為王住七八十年、(14)
倭国乱相攻伐歴年乃共立一女子(14)
為王名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。(13)
年已長大無夫婿有男弟佐治国。(13)
自為王以来少有見者以婢千人自侍。(15)
唯有男子一人給飲食伝辞出入居処。(15)
宮室楼観城柵厳設常有人持兵守衛。(15 計99字 合計1307字)
●倭国の政治状況の記述。あの倭国の女王である卑弥呼の名が初めて出てくる所である。卑弥呼は武力や政治力などで王となったのではなく、「共立」されて女王となったとある。卑弥呼は既に老女であって、鬼道を専門とし、それで政治を行っていた。政治的権力や武力に優れた人物ではなく、宗教的な存在として尊重されていた。宮室楼観城柵を厳かに設けて、立派な宮殿を作って住んでいた。「婢千人」の記事は大げさでも、多くの召使いにかしづかれて生活していたことが分かる。
●この卑弥呼を天照大御神に比定する人もいるが、少なくとも「古事記」や「日本書紀」では、天照大御神は天上神話のことだから、それを地上のことにすること自体に無理がある。「古事記」も「日本書紀」も天上神話と地上神話は明確に区別している。天上神話は人間の話ではなく、神々の話なのである。
○魏志倭人伝の続き。
そ?国の東、海を渡ること千余里、復た国有り。皆倭種なり。
又、侏儒国有り。其の南に在り。人の長三四尺なり。
女王を去ること四千余里、又、裸国黒歯国有り。
復た其の東南に在り。船行すること一年にして至るべし。
倭地を参問するに、海中州嶌の上に絶在し、
或いは絶え、或いは連なり周旋すること五千余里ばかりなり。
女王国東渡海千余里復有国皆倭種。(15)
又有侏儒国在其南人長三四尺。(13)
去女王四千余里又有裸国黒歯国。(14)
復在其東南船行一年可至。(11)
参問倭地絶在海中州嶌之上、(12)
或絶或連周旋可五千余里。(11 計76字 合計1383字)
●この部分は、倭国の政治体制の最後になるが、邪馬台国を規定する上では重要な記述が存在する。
●女王国の東は海であって陸続きではないと言う。それも海を渡ること千余里だから相当な距離だ。その海の向こうの人々も同じ倭人だと述べる。それから南には侏儒国がある。倭国のずっと先には、裸国・黒歯国などの国があるとも述べる。
●最後に「倭国」の大きさを述べていることに注目すべきである。「周旋すること五千余里ばかり」が「倭国」の大きさであるとする。この点については、既に前にも言及したが、魏志倭人伝が伝える「倭国」は、この大きさであることは非常に大事な要件である。
●当時の倭人は、魏志倭人伝が規定する「倭国」以外にも存在していたが、少なくとも魏志倭人伝が伝える「倭国」はこの範囲内でとらえるべきものであることをここの記述は明確にしている。
○これまでの記述から、倭国(「魏志倭人伝」の記載する)は、おおよそ次のようになるのではなかろうか。
・帯方郡から狗邪韓国まで七千余里
・狗邪韓国から対馬国まで一千余里
・対馬国から壱岐国まで一千余里
・壱岐国から末廬国まで一千余里で、合計一萬余里となる。
・ここに倭国の中心となる大きな島がある。いわゆる九州島である。
・その外周は五千余里と言うことになる。
・末廬国のほぼ反対側に近いところに邪馬台国が存在したとすれば、どれくらいの距離になるか。
・「半径rの円の円周の長さC」は「C=2πr」の公式で表されるから、C=五千余里として計算
すれば、r=796余里となり、直径に直すと、直径(2r)=1592余里となる。
・だから、末廬国から邪馬台国までは、直線で、おおよそ千五百余里ほどであったと思われる。
・外周を廻ると、おおよそ二千五百余里ほどであったのではないか。
・このことを「魏志倭人伝」が、「自郡至女王国萬二千余里」と記録していることは、納得できる
数字になる。末廬国のほぼ反対側に邪馬台国が存在したとは、記録にないが、魏志倭人伝の投馬
国、邪馬台国、狗奴国の存在状況などからは、このような距離感が推測されるのではないか。
○「倭国」の政治体制についての言及は280字である。