仁徳天皇陵 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯2023年2月1日に、仁徳天皇陵へお参りして来た。仁徳天皇陵が存在するのは、大阪府堺市堺区大仙町になる。JR阪和線百舌鳥駅で下りて、歩いてすぐのところに存在した。御陵の手前に、『百舌鳥古墳群ビジターセンター』が存在し、様々なパンフレットを頂戴できた。

◯インターネット検索すると、次のページがヒットした。

      仁徳天皇陵古墳(大山古墳・大仙陵古墳)

   クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓、5世紀中ごろ築造とされ

  全長約486mの日本最大の前方後円墳。百舌鳥耳原三陵の一つで、墳丘は3段

  に築成され三重の濠がめぐり10基以上の陪塚があります。

エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、南側の履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっていますが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものです。葺石と埴輪があり埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、鹿、家などが出土しています。
昭和30年代と最近の調査で造出しから須恵器の甕が出土し、古墳が造られた年代を知る資料として話題になっています。明治5年(1872年)には、前方部で竪穴式石室に収めた長持形石棺が露出し、刀剣・甲冑・ガラス製の壺と皿が出土しました。出土品は再び埋め戻されたといわれていますが、詳細な絵図の記録があり、甲冑は金銅製の立派なものだったようです。
日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚と考えられる古墳が10基以上あります。仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中天皇陵古墳よりも後で築造されたことがわかっています。

 

◯別に、ウィキペディアフリー百科事典には、次のように載せる。

      大仙陵古墳

大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん、大仙古墳)は、大阪府堺市堺区大仙町にある古墳、天皇陵。形状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つで、日本最大の古墳にして、世界最大級の墳墓である。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)として仁徳天皇の陵墓に治定されている。仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)や仁徳陵古墳とも言う。
ユネスコは2019年7月6日、大仙陵古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」を世界文化遺産として登録することを決定した。

 

◯説明にある通り、何とも大きい古墳である。外からは、中に何があるのか、皆目想像もできない。大きさも、まるで不明である。空中写真などの資料で判断するしかない。世界遺産と言っても、その実感が全く感じられない。そういう意味では、見学してもあまり感動は無い。

◯当古代文化研究所としては、此処に来る前に、古市古墳群の応神天皇陵と日本武尊白鳥陵を見学している。それでも、そういう感じである。できれば、はやり、百舌鳥古墳群を周回するくらいのコースを経ないとイメージが湧かないのかも知れない。

◯何故、この地に応神天皇陵や仁徳天皇陵が存在するのか。なかなかそういう説明が無い。不思議な話である。また、12代景行天皇の御陵が天理市渋谷町に存在し、13代成務天皇の御陵は奈良市山陵町、14代仲哀天皇陵は藤井寺市の古市古墳群に存在する。

◯その仲哀天皇の子供が15代応神天皇で、応神天皇の子供が16代仁徳天皇になる。特に、応神天皇は八幡宮の祭神となっている。そういう天皇の足跡がなかなかはっきりしない。それが不思議でならない。