紀伊山地の霊場と参詣道 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯2023年1月31日に、葛城の鴨都波神社に詣でて来た。ここまで、ブログ『鴨都波神社』から『高鴨神社』、『積羽八重事代主命』、『阿遅志貴高日子根命』、『下鴨神社』、『上賀茂神社』、『鴨神の故郷』、『上鴨神の故郷』、『かもつきのあひら』、『神代三山陵』、『吾平山陵』、『出雲神の故郷』、『神代三山陵の先坣僑位』と、ブログを書き続けて来た。

◯こうなると、次はブログ『紀伊山地の霊場と参詣道』とするしかない。つまり、この問題については、当古代文化研究所では、これまで何度も検証を加えていることなのである。それを丁寧に再度、検証することで、問題をより鮮明にすることができる。そういうふうに考える。

◯前回の『神代三山陵の先坣僑位』が神代三山陵と言う、何とも古色蒼然とした問題だったのに対し、今回の『紀伊山地の霊場と参詣道』は、世界文化遺産の問題で、2004年に登録されたと言う、何とも、真新しい問題である。

◯文化庁の「世界遺産 文化遺産オンライン」では、次のように案内する。

      紀伊山地の霊場と参詣道 (世界遺産登録年:2004年)
 紀伊山地は本州最南端、太平洋に張り出す紀伊半島に位置し、標高1,000m~2,000m級の山脈が縦横に走り、年間3,000mmを超える豊かな降水量が深い森林をはぐくむ山岳地帯です。
 紀伊山地は太古の昔から自然信仰の精神を育んだ地で、6世紀に仏教が伝来した以降、紀伊山地は真言密教をはじめとする山岳修行の場となりました。中でも、山岳修行により超自然的能力を獲得することを目的として10世紀中ごろから11世紀代に成立した修験道は、特に大峰山系の山岳地帯を中心的な修行の場としていました。また、9~10世紀に広く流布した「神仏習合」思想(日本古来の神々は仏教の諸尊が姿を変えて現れたものとする日本固有の思想)の聖地としても信仰を集めていました。
 さらに、10~11世紀頃の日本では「末法思想」(仏法が衰え世も末になるという思想)が流行し、死後に阿弥陀仏の居所である極楽浄土に往生することを願う「浄土宗」という仏教の教えが貴族や庶民の間に広まりました。これに伴って、都の南方に広がる紀伊山地には仏教諸尊の浄土があると信じられるようになり、この地の霊場としての性質がいっそう強まりました。この地方の神聖性がことさら重要視されるようになった背景には、深い山々が南の海に迫るという独特の地形や、両者が織り成す対照的な景観構成などが大きく影響していたものと考えられています。

 このような特有の地形及び気候、植生などの自然環境に根ざして育まれた多様な信仰の形態を背景として、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」と呼ばれる顕著な三つの霊場とそれらを結ぶ「参詣道」が形成されました。


◯よく整理された文章ではあるけれども、多くの問題がある文章だと言うしかない。まず、第一に、『紀伊山地の霊場と参詣道』と言う表題からして、まるで不可思議、珍妙なものとなっている。多くのものを集めて作った、とりとめのない内容である気がしてならない。 

◯要するに、「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」と言う霊場が何であるか、結局、理解出来なかった結果、案出されたネーミングが「紀伊山地の霊場と参詣道」だと言うことなのである。現地を訪れても、何処にも、その痕跡すら無い。

◯それに、文化庁は認識できていないが、吉野山・高野山・熊野本宮がもともと三山信仰なのである。研究不足は否めない。それに、「熊野三山」とあるけれども、「吉野三山」があって「熊野三山」が誕生したのであって、おまけに「高野三山」だって存在することすら、認識されていない。何とも、努力不足と言うしかない。それが文化庁の世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の詳細解説なのである。

◯もっと言うと、「紀伊山地の霊場と参詣道」は

  「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」

とは並べない。物事には順序と言うものがあって、必ず、

  吉野山・高野山・熊野本宮

と並べると、古来、決まっている。それもご存知無い。何とも寂しい案内なのである。こういうのを文化が無いと言う。

◯と言うのも、文化庁が世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」と命名しているものは、そんな珍妙なものではなくて、もともと『神代三山陵の先坣僑位』と言う、歴とした文化遺産なのである。何も世界遺産などに登録されなくても、最初から、古代人が造作した文化遺産なのである。

◯そういうことを文化庁は、何もご存知無い。何とも寂しい話である。文化庁が、『神代三山陵の先坣僑位』が世界遺産だとおっしゃるのなら、神代三山陵は、宇宙遺産になるのではないか。それくらい神代三山陵は凄いものなのである。少なくとも、日本の起源が此処であることは間違いない。

◯ちなみに、真実の神代三山陵は、次のようになる。

  初代・彦火瓊々杵尊の御陵=可愛山陵=鹿児島県肝属町内之浦甫与志岳(叶岳)
  二代・彦火火出見尊の御陵=高屋山陵=鹿児島県肝属町内之浦国見山
  三代・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の御陵=吾平山陵=鹿児島県鹿屋市吾平町上名の吾平山陵

こういうものを歴史の中から発掘して、世に出すのが、本来の文化庁の仕事である。

◯鹿児島県旧肝属郡には、その本物の神代三山陵が存在する。『神代三山陵の先坣僑位』が世界遺産なのである。神代三山陵は最低でも、宇宙遺産くらいの価値がある。そういうものが鹿児島県旧肝属郡には眠っている。実に勿体ない話である。