大徳寺:玉林院・龍光院・大光院 | 古代文化研究所:第2室

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○2022年2月3日、紫野の大徳寺へお参りした。大徳寺は、基本、非公開の寺である。したがって、大徳寺境内は閑散としていて、逆に心地よい。この後訪れた金閣寺とは雲泥の差がある。

○ウイキペディアフリー百科事典に拠れば、大徳寺には24もの塔頭が存在すると言う。もっとも、往古はもっと多くの塔頭が存在したとされる。それらの塔頭のうち、公開されているのは4院に過ぎない。

      大徳寺の塔頭

大徳寺は塔頭24を有する。2021年現在、常時拝観可能な塔頭は龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4か院のみで、大部分の塔頭は参詣を受け付けておらず、特別拝観の類も行っていない。

◯そんな話をブログ『大徳寺の塔頭』に書いている。

  ・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『大徳寺の塔頭』

 

◯一年後の2023年1月29日に、再び、大徳寺を訪れ、大徳寺の塔頭について、これまで、ブログ『大徳寺:興臨院・瑞峯院・大慈院』、『大徳寺:正受院・聚光院・高桐院』と書いて来た。今回はその続きで、『大徳寺:玉林院・龍光院・大光院』になる。

      玉林院

玉林院(ぎょくりんいん)は京都府京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。臨済宗大本山大徳寺塔頭である。通常は公開されていない。

慶長8年(1603年)、高名な医学者で、皇室の典医や豊臣徳川の待医も勤めた曲直瀬正琳(まなせ しょうりん)が、大徳寺142世月岑宗印(げっしん そういん)を開祖として創建した。慶長14年(1609年)に火災により焼失するが、片桐且元(かたぎり かつもと)らによってまもなく再興された。創建当初は正琳庵と称していたが、「琳」の字を分けて現在の院号「玉林院」に改めた。寛保2年(1742年)、大坂の豪商・鴻池了瑛(4代目鴻池善右衛門)が、先祖とされる山中鹿之助の位牌堂として南明庵を建立するとともに、蓑庵・霞床席が造営された。

 

      龍光院

龍光院(りょうこういん)は、京都府京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。臨済宗大徳寺派大本山大徳寺塔頭である。国宝・重要文化財の建物や美術品を多数有するが、非公開であり、観光を目的とした拝観は一切受け付けておらず、特別公開の類も行っていない、拝観謝絶の寺院である。

初代筑前福岡藩主の黒田長政が父、黒田孝高(官兵衛・如水)の菩提を弔うために建立開基。作事奉行は黒田一成、黒田利長。孝高の法名・「龍光院殿如水円清大居士」より龍光院と称す。開山した春屋宗園(しゅんおくそうえん)が当院で隠棲し間も無く亡くなった為に、事実上の開山となった江月宗玩(こうげつそうがん)は小堀遠州などと親交があり、在世中には遠州が営んだ孤篷庵も院内にあった。江月宗玩は津田宗及の子であり、龍光院に伝来する名物茶道具の多くは、長政の領地筑前博多や堺の豪商所縁の品が多く、宗及の遺愛品などが相続によって龍光院の有に帰したと推測されている。

 

      大光院

大光院(だいこういん)は、京都市北区紫野大徳寺町にある臨済宗大徳寺派寺院大本山大徳寺塔頭本尊釈迦如来

文禄元年(1592年)、豊臣秀吉の実弟秀長の菩提を弔うために秀長の継嗣である秀保古渓宗陳を開山として招き、所領である大和郡山に建立した。大光院の名称は秀長の戒名からとられている。

しかし、秀保が早世したために家が断絶すると、秀保の家臣・藤堂高虎により慶長4年(1599年)に本山である大徳寺の山内に塔頭として移された。以降、江戸時代を通じて伊勢国津藩藤堂家により援助が行われた。