◯円山公園から「ねねの道」を少し行ったところで、道はぶつかり、そこにあるのが芭蕉堂と西行庵である。芭蕉堂の案内板には、次のようにあった。
芭蕉堂
この堂は、江戸時代中期、俳聖松尾芭蕉をしのぶため、
芭蕉にゆかりの深いこの地に、加賀の俳人、高桑䦨更が
営んだことに始まる。
鎌倉時代の初め、諸国を旅して自然を友とした西行が、
この地に阿弥陀坊を訪ね、
柴の戸と聞くはくやしき名なれども
よにこのもしき住居なりけり(山家集)
と詠んでいる。芭蕉は、この西行を心の師とし、西行を
慕って旅の生涯を送ったが、この地で、先の西行の作歌
を踏まえて、
しばの戸の月やそのままあみだ坊(小文庫)
の一句を詠んだ。この句を生かして闌更が営んだのが
この芭蕉堂である。
堂内には、蕉門十哲の一人、森川許六が刻んだ芭蕉の
木像を安置する。
毎年四月一二日には花供養、十一月一二日には芭蕉忌
が行われる。
なお、東隣の西行庵庭内には、各務支考が芭蕉一七回
忌に建てた「かな書の碑」がある。
京都市
◯芭蕉堂の隣には、西行庵が建ち、次の案内板があった。
西行庵
西行法師(一一一八~一一九〇)は、平安時代末期の僧侶であり、
新古今和歌集の代表的歌人の一人である。出家をする前の俗名を佐藤
義清といい、もと鳥羽上皇の北面の武士であったが、保延六年(一一
四〇)に出家し諸国を行脚して全国各地の風光明媚な自然を愛で和歌
を詠んだ。
この地は、西行が蔡華園院を営み、終焉の地であったところと伝え
られている。明治時代中頃には荒廃を極めていたが、明治二十六年
(一八九三)に、富岡鉄斎が勧進文(寄付を呼びかける文)を書き、
小文法師が浄財を募り、当時の京都市長内貴甚三郎らの尽力により
再建されて現在に至る。
当庵は、母屋「浄妙庵」、茶室「皆如庵」からなる。茅葺きの母屋は
大徳寺塔頭真珠庵の別院を移したものである。皆如庵は北野の久我別邸
より移された桃山時代の名席で、円窓床と道安囲の点前座が有名である。
毎年三月中旬には、皆如庵で西行忌茶会が執り行われる。
願はくは花の下にて春死なむ
その如月の望月の頃 西行(山家集)
京都市
◯凄く気になるところではあるが、なかなかそこまで調べる気にもならない。西行の終焉の地がここであることは初めて知った。ちなみに、西行忌は旧暦二月一六日とされ、芭蕉忌は旧暦十月一二日とされる。