◯前回、案内したように、円山公園の名は、『慈円山安養寺』から生まれたものだと言う。そのことについては、円山公園にあった案内板の説明にも、次のようにあった。
円山公園の由来
平安の昔、今の円山公園一体は一面真葛や薄などが生い茂り
真葛ケ原と呼ばれていました。鎌倉時代、慈円僧正が
『わが恋は松を時雨の染めかねて
真葛ケ原に風さわぐなり』(新古今集)
と詠んでから一躍和歌の名所となり、以来多くの歌にうたわれ
ました。江戸時代に入ると安養寺塔頭の六阿弥(左阿弥、也阿
弥などいずれも何阿弥と称した六坊)が席貸を始め、次第にに
ぎやかさを増してきました。
この頃から『慈円山安養寺』の『円山』がこのあたりの呼び
名となったと伝えられています。
◯その安養寺について、ウィキペディアフリー百科事典には、次のように載せる。
安養寺(京都市東山区)
安養寺(あんようじ)は、京都市東山区にある時宗の寺院。山号は慈円山。本尊は阿弥陀如来。京都盆地の東山山麓、円山公園の北東隅に位置する。法然上人、親鸞聖人ゆかりの吉水草庵だともされる。
円山公園の一画は、明治政府によって官収された安養寺の元境内で、公園の名称「円山」も安養寺の山号「慈円山」に由来する。
延暦年間(782年 - 806年)に最澄がこの真葛ヶ原の北東の地に、桓武天皇の勅命によって開山となり、建てられたと伝える。平安時代には荒廃していたが、付近の青蓮院に住していた天台宗の慈円(慈鎮和尚)の援助を受けた法然が承安5年(1175年)にこの地に住み、吉水草庵を建てて浄土宗の教えを広め始めた。
しかし、建永元年(1206年)に起きた承元の法難によって、法然は土佐国、後には讃岐国に流罪にされ、浄土宗の一大拠点吉水草庵は大打撃を受ける。そこに慈円が本格的に吉水草庵ならぬ安養寺の復興に着手しだし、比叡山から弁財天を勧請して弁天堂を建て安養寺の鎮守とし、さらに境内に法華懺法を修する道場として大懺法院を建立したため寺勢は回復し、慈円は吉水僧正や吉水大師と呼ばれるようになった。山号の「慈円山」は慈円からとられたものである。
南北朝時代となり、時宗の国阿上人が永徳年間(1381年 - 1383年)に住職として入って以後は、時宗十二派の一つ、霊山派(現、国阿派)本山正法寺に属し、その末寺となった。
時宗に改宗後は住持は代々「阿弥」号を名乗り、也阿弥、正阿弥など六つの塔頭すべてに「阿弥」が付いていた。勝興庵正阿弥、長寿庵左阿弥、花洛庵重阿弥、多福庵也阿弥、延寿庵連阿弥、多蔵庵源阿弥の6つがあり、「六阿弥」「円山の六坊」などと呼ばれた。
◯併せて、慈円についても、見ておきたい。
慈円
慈円(じえん、旧字体:慈圓、久寿2年4月15日(1155年5月17日) - 嘉禄元年9月25日(1225年10月28日)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧、歌人。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚(じちん かしょう)、通称に吉水僧正(よしみず そうじょう)、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円(さきの だいそうじょう じえん)と紹介されている。
父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀。摂政関白・九条兼実、太政大臣・藤原兼房は同母兄にあたる。
幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒。治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継いだ。
◯つまり、円山公園が『慈円山安養寺』から来ていることは間違いない。その慈円が天台座主であったことの意義は大きい。その慈円の保護を受けたのが、浄土宗の開祖、法然だと言うことになる。
◯判るように、現在、八坂神社境内とされるところや円山公園一帯は、全て慈円山安養寺境内であった。つまり、比叡山の末寺だったと言うことになる。それほど、この辺りに於ける比叡山の影響は大きかった。