准胝観音堂 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯前回、ブログ『上醍醐』を案内し、その中で、醍醐寺のホームページが案内する上醍醐が次のようであることを案内した。

      上醍醐

      醍醐寺はこの地から始まりました。

   登山口の女人堂から小一時間ほど険しい山道を登っていくと、

  醍醐寺発祥の地、上醍醐へ到着します。
   更に歩みを進めていくと、874年の開創以来、
  今もこんこんと湧き続ける醍醐水が参拝者の喉を潤してくれます。
   醍醐水を飲んだ時の“醍醐味”は実際に登ってみると、
  より一層深く味わうことができます。
   まさに水は、生命の源であり、醍醐寺の源でもあります。

上醍醐には、国宝の薬師堂や清瀧宮拝殿、豊臣秀吉が慶長11年(1606)に再建した開山堂(重文)と如意輪堂(重文)や五大堂などの諸堂が点在しております。

また、醍醐の花見の1年前の慶長2年(1597)には、豊臣秀吉と徳川家康が下見のために上醍醐へ登山したことが「義演准后日記」に記されています。

上醍醐の頂上に、醍醐寺の開祖、聖宝・理源大師をお祀りした開山堂と如意輪堂があります。その地からは大阪の街や大阪城を一望でき、運が良ければ明石海峡大橋までご覧いただけます。

上醍醐は当山派修験道の道場でもあります。
谷を渡る風の音、鳥のさえずり、新緑の薫り、紅葉など豊かな自然の中に身を置くと自然との一体感、その中に生かされていること、人と人とのつながり、すべての命がつながっていることを五感で感じることができます。
それが修験道の醍醐味でもあります。

◯ここに、『准胝観音堂』の記録が一言も無いのが不思議である。もともと、醍醐寺が始まったのが上醍醐であると言いながら、『准胝観音堂』に一言も触れないと言うのは、どう考えてもおかしい。

◯ある意味、「西国三十三所第十一番 深雪山 上醍醐 准胝堂」が醍醐寺の別名である。その上醍醐の准胝堂を建てたのも理源大師聖宝なのだから。西国三十三所では、醍醐寺を、次のように案内している。

      西国三十三所第十一番 深雪山 上醍醐 准胝堂(醍醐寺)

准胝堂の創建は、貞観18年。醍醐寺開山、聖宝理源大師が開山のおり、醍醐水の辺の柏の霊木から准胝観世音菩薩を彫り、その柏の木があった場所にお堂が建てられたのが最初とされる。その後、何度か焼失したがそのつど再建されてきた。現在平成20年8月の落雷が原因による火災によりお堂が焼失したため、下醍醐・伽藍内の観音堂に、准胝観音を安置し、参拝、納経、朱印をお受けしている。尚、毎年5月15日から21日の間、准胝観音総供養として秘仏をご開扉する。開白の15日は准胝観音曼荼供法要、18日に中日法要、21日に結願法要が厳修される。

◯准胝観音堂の焼失は、平成二十年八月二十四日未明のことだと言う。次の記録がある。

      上醍醐准胝観音堂の焼失について

 平成二十年八月二十四日未明 上醍醐准胝観音堂が全焼しました。

 痛恨の極み、筆舌に表わすことはできません。

 当夜、上醍醐一帯は、風雨強く、雷注意報発令中であり、二十三日二十二時五十六分の雷鳴は、ことのほか大きく、落雷を思わせるもので、この時に上醍醐の火災報知機は全滅しました。通常、火災報知機は異常を感知すると、自動的に消防署へ直結され、いち早く通報されます。通報を受けた署より寺務所へ確認通報があるのですが、それを不可能にするほどの大きな力でありました。

 上醍醐当直者は、携帯電話を使用し、まず一一九番通報をし、後に醍醐寺寺務所に知らせました。直ちに有事発生の体制に入り、職務分担行動に移りました。すでに初期消火に従事していた上醍醐当直者と、登山した職員が合流し消火に当たり、時を同じくして伏見消防署の消火活動も開始されました。一時三十分火勢は弱まり二時三十分鎮火の報告を受けました。四時には、有事対応の手配を済ませ、壁瀬宥雅執行とともに登山、観音堂の全焼、山林への延焼と他の堂宇への類焼と国指定文化財の消失なきことを確認いたしました。

◯平成20年と言えば、2008年のことになる。もう16年も昔のことである。上醍醐の准胝観音堂跡は、未だにそのままである。上醍醐を訪れ、「准胝観音堂再建予定地」の立て札を見て、寂しさを感じるのは、私だけだろうか。

◯当古代文化研究所は敬虔な仏教徒であるが、浄土真宗西本願寺派である。それでも、上醍醐の准胝観音堂跡がそのままなのは、気になるし、寂しい。早急の復興を願うばかりである。