醍醐寺へ | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯2022年2月2日、すでに、醍醐寺へは参詣済みである。その話は、次のブログに書いている。

  ・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『醍醐寺』

 

  ・テーマ「京都ぶらり旅」:ブログ『三宝院』

 

◯ただ、この時は醍醐寺の三宝院を訪れることに目的があったので、下醍醐のみを訪れ、上醍醐である醍醐山まではお参りすることができなかった。何しろ、醍醐山は標高450mもあるので、上醍醐まで出掛けると、それこそ、一日掛かりとなってしまう。

◯そのことが、前々から気になっていた。それで、2022年12月20日に、やっと、上醍醐参詣を果たすことができた。前日は、奈良県橿原市へ出掛け、大和三山を巡って来た。今日は、醍醐山だから、毎日、登山である。

◯泊まっていた京都新阪急ホテルは、京都駅烏丸口正面にあったので、眼の前が京都駅だった。前日夜は、トンカツを食べ、英気を養った。朝はなか卯で朝定食をいただいた。そのまま8時過ぎに京都駅八条口から京阪バスの301路線に乗って行った。京阪バス301路線の終点が醍醐寺となっている。

◯醍醐寺は大寺である。その全容を知ろうと思えば、見るだけでも、丸一日を要するに違いない。前回、2月2日は三宝院を見学した。今回は、上醍醐を訪れようと言うわけである。

◯ちなみに、ウィキペディアフリー百科事典が案内する醍醐寺は、次の通り。

      醍醐寺

醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山となる寺院山号は醍醐山(深雪山とも)。本尊薬師如来。上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は、西国三十三所第11番札所で本尊は准胝観世音菩薩。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵している。豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られている。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

平安時代初期の貞観16年(874年)、空海(弘法大師)の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が准胝観音ならびに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と命名した。貞観18年(876年)には聖宝によって准胝堂と如意輪堂が建立されている。

醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展した。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、延喜7年(907年)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立されている。その圧倒的な財力によって延長4年(926年)には醍醐天皇の御願により釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立し、発展した。歴代座主が理性院、三宝院(灌頂院)、金剛王院(現在の一言寺)、無量光院、報恩院の醍醐五門跡から選ばれるなど大いに栄えていた。

 

◯引用が長くなったが、醍醐寺は以前から気になっていた。しかし、なかなか、お参りする機会がなかった。奥馳道を歩けば、各所に聖宝の足跡を見る。また、大峰山の先、小笹の宿には三宝院の御堂が建っている。

◯ウィキペディアフリー百科事典が案内する聖宝は、次の通り。

      聖宝

聖宝(しょうぼう、天長9年2月15日832年3月21日) - 延喜9年7月6日909年7月25日))は、平安時代前期の真言宗の僧。醍醐寺の開祖で、真言宗小野流の祖。また、後に当山派修験道の祖とされる。俗名は恒蔭王(つねかげおう)。光仁天皇の玄孫で、兵部大丞・葛声王(かどなおう)の子。諡号は理源大師。

なお、聖宝に唱える言葉は「南無聖宝尊師(なむ しょうぼうそんじ」であり、三祖宝号の時は「南無遍照金剛、南無聖宝尊師、南無神変大菩薩」で、お山の中では順番は逆になる。

 

◯つまり、当山派修験道では、空海・役行者と並び称されるのが聖宝であることが判る。その聖宝が建てた寺が醍醐寺である。結構な山道であると言う。心して登りたい。