會稽東冶之東 | 古代文化研究所:第2室

古代文化研究所:第2室

ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯前回、陳寿は『中国の伝統的倭国観』に基づいて記録している話を書いた。その記録の羅列を、次のように紹介した。

  ・無良田、食海物自活、乖船南北市糴。

  ・差有田地、耕田猶不足食。亦南北市糴。

  ・好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。

  ・男子無大小皆黥面文身。

  ・自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。

  ・夏后少康之子封於會稽、斷髪文身以避蛟龍之害。

  ・今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以為飾。

  ・計其道里、當在會稽、東冶之東。

  ・其風俗不淫、男子皆露紒、以木綿招頭。

  ・其衣橫幅、但結束相連、略無縫。

  ・婦人被髪屈紒、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。

  ・種禾稻、紵麻、蠶桑、緝績、出細紵、縑綿。

  ・其地無牛馬虎豹羊鵲。

  ・木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃。

  ・所有無與儋耳、硃崖同。

  ・倭地溫暖、冬夏食生菜、皆徒跣。

◯実は、こういう記録の一つ一つを丁寧に検証して、初めて、「三国志」倭人条1986字を読んだことになる。それには、相当な時間を要する。とても片手間仕事ではできない。もちろん、当古代文化研究所では、そういう検証を繰り返している。

◯だから、これまで、寧波には八回出掛けているし、舟山群島、普陀山には六回お参りしているし、会稽にも四回訪れているし、杭州にも五回出掛けている。また、海南島から上海までの海岸線も全て踏破済みである。

◯そうしないと、まず、「三国志」倭人条1986字は読めない。それが、どういうことか。今回は、そういう話をしてみたい。

◯上記した 「三国志」倭人条1986字の記録の中に、

 ・計其道里、當在會稽、東冶之東。

と言うのがある。これが何を意味するか。これを説明することは容易ではない。そのために、当古代文化研究所では、何度も中国訪問を繰り返している。

◯結論だけを述べると、この記録には、誤りがある。それを正すと、次のようになる。

 ・計其道里、當在會稽、東明之東。

◯どうしてそんなことが判るかと言うと、「三国志」は幾度となく書写されて来たものであって、あまつさえ、改訂まで受けている。その中で、「東明」を「東冶」に書き誤ったか、故意に書き改められたものと思われる。

◯その犯人も、おおよそ、誰であるか、推測されるのだが、長くなるので、ここでは触れない。つまり、

 ・計其道里、當在會稽、東冶之東。

では、この文は、意味をなさない。

 ・計其道里、當在會稽、東明之東。

であって、始めて、その意を解することができる。

◯「三国志」倭人条1986字を読むとは、そういう作業である。陳寿が書いた原文を復元する作業まで含まれる。というのも、「三国志」は三世紀の書物であって、原文検証は必要不可欠の作業であることは言うまでもない。

◯それができないようでは、到底、「三国志」は読めない。それを行うことで、始めて、

 ・計其道里、當在會稽、東冶之東。

が意味をなす。

◯わずかに、「冶』字を「明」字に改めるだけのことで、

 ・計其道里、當在會稽、東冶之東。

が意味することが蘇って来る。

◯つまり、

 ・計其道里、當在會稽、東明之東。

であって、始めて、この文は意味をなす。それは次のような話になる。

◯文章で、地名が並べるとすれば、基本、「大地名+小地名」と並べるのが普通である。ここも、その通りであって、それが「会稽+東明」と言うことになる。中国であれば、会稽が郡であって、東明が県と言う単位になる。

◯日本では、それが「県+郡」だが、中国では、「郡+県」である。つまり、会稽郡東明県と言うことである。具体的には、会稽郡東明県とは舟山群島あたりを指す。結果、倭国は舟山群島の東側に位置すると言う表現が、

 ・計其道里、當在會稽、東明之東。

だと言うことが判る。

◯先に、当古代文化研究所は舟山群島、普陀山には六回お参りしていると書いた。何故、舟山群島の普陀山に、それ程、何度もお参りしているかと言うと、日本の精神的ルーツが此処にあると判断するからである。それは此処を訪れた人にしか、理解されない。

◯最後に舟山群島、普陀山を訪れたのは、2017年12月10日から14日までで、普陀山に4泊5日、滞在して、島中を歩き回った。日本人に普陀山がどんな島であるかは、ほとんど理解されていない。ここから、日本へ仏教が伝来したことも、間違いない。それは、普陀山を訪れてみない限り、容易に理解することは難しい気がする。

◯実は、それが『遣唐使船南島路』と言うルートになる。当古代文化研究所では、長年、このルート探索を続けて来ている。それは、次のように案内される。

  ・坊津⇒硫黄島(56㎞)

  ・硫黄島⇒口永良部島(36㎞)

  ・口永良部島⇒吐噶喇列島口之島(59㎞)

  ・吐噶喇列島口之島→吐噶喇列島中之島(14㎞)

  ・吐噶喇列島中之島⇒吐噶喇列島諏訪之瀬島(28㎞)

  ・吐噶喇列島諏訪之瀬島⇒吐噶喇列島悪石島(24㎞)

  ・吐噶喇列島悪石島⇒吐噶喇列島宝島(50㎞)

  ・吐噶喇列島宝島⇒中国浙江省舟山群島(600㎞)
  ・舟山群島⇒寧波(150㎞)

  ・寧波⇒会稽(100㎞)

◯このルートの逆を通って、中国から日本へ文化が運ばれて来た。その一つが仏教になる。もちろん、坊津は邪馬台国の主交易港であり、後世、それは日本三津の筆頭に挙げられるようになる。卑弥呼が、このルートを押さえていて、中国からの文化を独り占めしていた。

◯それが三世紀の話になる。以降、このルートを押さえたものが莫大な権益を有することになる。それは江戸時代まで続いている。

◯したがって、「三国志」倭人条1986字が記録する、

 ・計其道里、當在會稽、東明之東。

とは、

  ・会稽⇒寧波(100㎞)

  ・寧波⇒舟山群島(150㎞)

  ・中国浙江省舟山群島⇒吐噶喇列島宝島(600㎞)

  ・吐噶喇列島宝島⇒吐噶喇列島悪石島(50㎞)

  ・吐噶喇列島悪石島⇒吐噶喇列島諏訪之瀬島(24㎞)

  ・吐噶喇列島諏訪瀬島⇒吐噶喇列島中之島(28㎞)

  ・吐噶喇列島中之島→吐噶喇列島口之島(14㎞)

  ・吐噶喇列島口之島⇒口永良部島(59㎞)

  ・口永良部島⇒硫黄島(36㎞)

  ・硫黄島⇒坊津(56㎞)

を意味することが判る。

◯「三国志」倭人条1986字を読むとは、そういうことである。とても一年や二年で片付くことではない。当古代文化研究所では、長年に渡って、そういう研究をしている。