◯前々回、ブログ『中国の伝統的倭国観』を書いて、倭国は越国の一つであることを案内した。少し言葉不足で、説明が不十分だった気がするので、もう少し、説明を加えておきたい。
◯それは、どういうことかと言うと、中国には「百越」と言う概念が存在する。つまり、越国には多くの越国が存在すると言う話である。その百越の一つが倭国であると言うことになる。
◯そういう意味では、前回案内した、ブログ『會稽東冶之東』で、倭国が何処に存在するかと言う問題に触れた。この意識も、「三国志」倭人条では、相当、強いものがある。つまり、倭国は越国の中でも、会稽郡東明県の東海上に存在すると言うことになる。
◯それは、また、具体的には、
・会稽⇒寧波(100㎞)
・寧波⇒舟山群島(150㎞)
・中国浙江省舟山群島⇒吐噶喇列島宝島(600㎞)
・吐噶喇列島宝島⇒吐噶喇列島悪石島(50㎞)
・吐噶喇列島悪石島⇒吐噶喇列島諏訪之瀬島(24㎞)
・吐噶喇列島諏訪瀬島⇒吐噶喇列島中之島(28㎞)
・吐噶喇列島中之島→吐噶喇列島口之島(14㎞)
・吐噶喇列島口之島⇒口永良部島(59㎞)
・口永良部島⇒硫黄島(36㎞)
・硫黄島⇒坊津(56㎞)
と言う話になる。このルートは、日本では『遣唐使船南島路』と言う。また、この坊津が邪馬台国の主交易港であることも見逃せない。
◯つまり、このルートは、魏国の帯方郡から邪馬台国までの道程、
帯方郡⇒狗邪韓國=七千餘里
狗邪韓國⇒對馬國=千餘里
対馬國⇒一大國=千餘里
一大國⇒末盧國=千餘里
末盧國⇒伊都國=五百里
伊都國⇒奴國=百里
奴國⇒不彌國=百里
不彌國⇒投馬國=千五百余里
投馬國⇒邪馬壹國=八百余里
末盧國⇒邪馬壹國=二千餘里
とともに、越国の都、会稽から邪馬台国までの道程だと言うことになる。こういう表現を見事にして見せるのが「三国志」であることも見逃してはなるまい。
◯そういう意味では、前回のブログ『會稽東冶之東』とともに、今回の『所有無與儋耳、硃崖同。』と言う意識にも、十分、留意する必要がある。何故、「三国志」がわざわざ、
所有無與儋耳、硃崖同。
と記録するのか。気になることろである。
◯当古代文化研究所では、そのことを検証するために、海南島から寧波までの海岸線をずっと巡回することを決行した。それが2018年3月7日から14日にかけての『南越旅游』であり、2019年3月7日から14日にかけての『北越旅游』だった。
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◯『南越旅游』と『北越旅游』によって、おおよそ、海南島から寧波までの海岸線を巡回できたことになる。この辺りに、どういう文化が存在したか。そういうものを、何とか、見ることができたのではないか。この旅行で、得たものは大きい。
◯「三国志」倭人条1986字に、編者である陳寿が、わざわざ、
所有無與儋耳、硃崖同。
と記録した理由が何であるか。それが理解できたような気がする。
◯それは、倭国が百越の一つであることの案内であることが判る。どういうことかと言うと、百越の最も南に位置するのが海南島の儋耳郡であり、硃崖郡だと言うことである。そして、百越の、最も北に位置するのが実は倭国だと言うことになる。
◯こういうふうに、「三国志」倭人条が記録することを、一つ一つ検証しない限り、「三国志」倭人条を読み解くことはできない。それには、このように、膨大な時間と手間を要するわけである。簡単に「三国志」倭人条が読めないとは、そういうことである。
◯寧波と会稽の間には、大きな山塊が存在する。その名は四明山と言う。仏教の聖地としても知られ、例えば、比叡山にも四明山が存在する。この四明山の北を山陰と呼び、南を山陽と呼ぶ。この四明山は、たぶん、明の西に位置する山の意ではないか。つまり、もとは、西明山だったと思われる。当古代文化研究所は、もちろん、この四明山にも参詣済みである。