畝尾坐健土安神社 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯ウィキペディアフリー百科事典には、天香山神社について、次のように載せていた。

      天香山神社

   天香山神社(あまのかぐやまじんじゃ)は、奈良県橿原市にある神社である。

  天香久山北麓に鎮座している。畝尾都多本神社・坂門神社(天岩戸神社)・畝尾坐

  健土安神社とともに、「天香山坐四處神社」と呼ばれている。

◯つまり、畝尾坐健土安神社は「天香山坐四處神社」の一社だと言うことになる。インターネット検索すると、畝尾坐健土安神社のホームページがヒットした。

      畝尾坐健土安(うねおにますたけはにやす)神社

近世に天照大神社と称したが、「延喜式」神名帳十市郡の「畝尾坐健土安神社大、月次新嘗」に比定(大和志)。旧村社。

畝尾の訓について、「延喜式」金剛寺本はウネヒ、九条家本はウネヲとし、十市郡には畝尾都多本神社の名もみえる。「古事記」神代巻の「香山も畝尾の木の本」はウネヲと読むのが定説になっており、式内社の場合は香山のうねりをもった山の尾に鎮座する神と解釈されている。

畝尾坐健土安神社は「日本書紀」神武天皇即位前紀己未年二月二〇日条に「天皇、前年の秋九月を以て、潜に天香山の埴土を取りて、八十の平瓫を造りて、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。遂に区宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし所を号けて、埴土と白ふ」とみえる埴安に鎮座した土霊とされる。

天平二年(七三〇)神戸の租稲九〇束のうち四束を祭神料に充てられ(「大倭国正税帳」正倉院文書)、天安三年(八五九)一月二七日、従五位下により 従五位上に昇叙した(三代実録)。また大同元年(八〇六)に大和国に神封一戸を充てられた畝尾神は(新抄格勅符抄)、当社のことか畝尾都多本神社のことか明らかでない。なお「日本書紀」神武天皇即位全紀戌年九月条に埴土を取ったと記す「天香山社」は、同じく十市郡の式内社天香山坐櫛真命神社のことではなく、当社をさすとする説がある(大和志料)。

神社と天香久山の間に赤埴山という小丘があり、埴安伝承地の石碑が建つ。「磯城郡誌」は「赤埴山。香久山の西北に接続し、全山赤色粘土なれば赤焼き土器に適するならん。土人これを赤せん山と称し、香久山の中央西側は白色粘土なるを以て、土人これを白こと称せり」と伝える。

『大和・紀伊 寺院神社辞典』より引用

 

◯長い引用となったが、極めて詳しく、親切で、丁寧な案内となっている。別に、ウィキペディアフリー百科事典が案内する畝尾坐健土安神社は、次の通り。

      畝尾坐健土安神社

畝尾坐健土安神社(うねおにますたけはにやすじんじゃ)は、奈良県橿原市にある神社である。天香具山の北西麓に鎮座している。隣接する南西の位置に同じく式内社の畝尾都多本神社が鎮座している。1446年(文安3年)の『和州五郡神社神名帳大略注解』には 天香山坐櫛真命神社・坂門神社(天岩戸神社)・畝尾都多本神社とともに、「天香山坐四處神社」と称している。

 

◯天香山神社のすぐ下に小さな池があり、湖畔に、「天香山埴安傅称地道」の案内標識が設置してあった。そこを北へ下って行き、すぐに左へ曲がって進むと、「八釣山地蔵尊」「天香山埴安傅称地道」の案内標識が建っている。そこを左へ進むと、すぐに八釣山地蔵尊興福寺が見えて来る。その向かいに、畝尾坐健土安神社が鎮座まします。

◯ここを訪れるのも、もう八回目であるからして、相当に詳しい。実は、畝尾坐健土安神社から20m先には、前に案内した畝尾都多本神社が鎮座まします。つまり、畝尾坐健土安神社と畝尾都多本神社とは隣接して存在する。このように、別の神社が隣接するのも、珍しい気がする。普通なら、境内社とか摂社となっているのだが、そういう関係では無さそうである。

◯何故なら、両者は、入口が全然、別なのである。畝尾坐健土安神社は北側から入り、畝尾都多本神社は南側から入るのだから、正反対になっている。それでいて、社は20mほどの近い存在となっている。

◯併せて、八釣山地蔵尊興福寺と畝尾坐健土安神社の関係も気になる。この両者は道路を挟んで向かい合って存在している。気になって仕方が無いのだが、今のところ、調べる時間が無い。