◯前回のブログ『天降り付く天の香具山』の最後に、こう書いた。
・ただ、大和三山が二つもあっては、何とも紛らわしい。それで、当古代文化
研究所では、本物の大和三山を、邪馬台国三山と呼び称している。もちろん、
そこに邪馬台国が存在したと「三国志」が記録しているからである。次回は、
そういう話をしたい。
◯日本の三世紀の状況を、中国の正史「三国志」が1986字も記録している。日本最古の史書とされる「古事記」や「日本書紀」が八世紀のものであることを考えると、500年も古い。当然、「三国志」が記録する三世紀の日本の様子は、たいへん、気になる。
◯ところが、中国の史書は極めて読むことが難しい。基本、中国の史書は、中国の専門史家のみを読者対象としている。したがって、普通の中国人にも、中国の史書は読むことが難しい。まして、それを日本人が読むとなると、なおさら、大変である。
◯中国の正史「三国志」の倭人条、1986字を、日本では、特別に「魏志倭人伝」と呼び称している。しかし、もともと「魏志倭人伝」と言う書物は存在しない。ここでも、それにしたがって、「魏志倭人伝」と呼ぶこととする。
◯たかだか、1986字だから、「魏志倭人伝」を読むことは誰にでもできる。誰もがそう思って「魏志倭人伝」を読む。しかし、それは、到底、無理な話である。基本、日本人に「魏志倭人伝」は読めない。それが中国の常識である。
◯『史記」や「漢書」が原文で読めないと、まず、「三国志」を読むことは無理である。「詩経」や「書経」くらいは読んでから「三国志」を読めと、「三国志」の編者、陳寿も明言している。それが「三国志」を読む準備だと言うことになる。そこまでして、「魏志倭人伝」を読んでいる人は、ほとんど、居ない。
◯そのようにして、真面目に、「魏志倭人伝」を読むと、「魏志倭人伝」の主題が見えてくる。「魏志倭人伝」の主題は、倭国三十国の案内にある。陳寿は、それを、次のように案内する。
【渡海三国】
・狗邪韓国・対馬国・壱岐国
【北九州四国】
・末廬国・伊都国・奴国・不弥国
【中九州二十国】
・斯馬国・巳百支国・伊邪国・都支国・邇奴国・好古都国・不呼国
・姐奴国・対蘇国・蘇奴国・呼邑国・華奴蘇奴国・鬼国・為吾国・
・鬼奴国・邪馬国・躬臣国・巴利国・支惟国・烏奴国・(奴国)
【南九州三国】
・投馬国・邪馬台国・狗奴国
◯これが陳寿が発明した倭国三十国の案内になる。あまりの見事さに、驚き、呆れる。こんな発明は見たことも、聞いたことも無い。これが中国で正史をものする史家の実力である。
◯陳寿の実力は、それだけではない。「三国志」全六十五巻の中で、陳寿が最も心血を注いでいるのが、巻三十「烏丸鮮卑東夷伝」、「倭人」の条だと言うと、誰もが驚くに違いない。しかし、それだけのエネルギーを陳寿が「魏志倭人伝」に注いでいることは確かである。
◯たとえば、魏国の帯方郡から邪馬台国までも、陳寿は次のように案内してみせる。
帯方郡⇒狗邪韓國=七千餘里
狗邪韓國⇒對馬國=千餘里
對馬國⇒一大國=千餘里
一大國⇒末盧國=千餘里
末盧國⇒伊都國=五百里
伊都國⇒奴國=百里
奴國⇒不彌國=百里
不彌國⇒投馬國=千五百余里
投馬國⇒邪馬壹國=八百余里
◯この手法もまた、陳寿の発明である。あまりに手が込んでいて、それを誰も読み解くことができない。真面目に「魏志倭人伝」を読むと、こうなる。
◯結果、邪馬台国はすでに発見されている。本当なら、そのことは、三世紀に判っていたことである。ところが、当時、日本で、「魏志倭人伝」が読める人は多くは居なかった。日本最初の史書すら、成立したのは八世紀のことなのだから。
◯その邪馬台国を代表する風景が邪馬台国三山なのである。
うねびやま=霧島山(1700m)
かぐやま=桜島山(1111m)
みみなしやま=開聞岳( 924m)
◯もともと大和三山とは、そういう山だった。奈良県橿原市に存在する大和三山、
畝傍山(うねびやま、199m)
香久山(かぐやま、152m)
耳成山(みみなしやま、140m)
がレプリカであるとは、そういうことである。
◯日向国の邪馬台国三山は、実に堂々とした山ばかりである。それに対して、大和国の大和三山の貧弱さは否めない。大和国名を冠した山が大和三山だろう。
◯当古代文化研究所では、そういう研究をしている。今どき、邪馬台国が畿内だとか、北九州だとか、吉野ケ里だと言うのは、全て、虚妄の説に過ぎない。何故なら、邪馬台国や卑弥呼は、中国の正史「三国志」に書かれた史実だからである。「三国志」に拠らない邪馬台国や卑弥呼は、全て虚妄の説に過ぎない。当たり前のことである。
◯真面目に「三国志」を読むと、そういうことが判る。そのことを検証するために、当古代文化研究所では、今回、八回目の大和三山登山を挙行した。何事も確認が大切である。