清凉寺 | 古代文化研究所:第2室

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◯清凉寺の住所は京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町だとする。その嵯峨釈迦堂そのものがすでに清凉寺なのである。ウィキペディアフリー百科事典が案内する清凉寺は、次の通り。

      清凉寺

清凉寺(せいりょうじ)は、京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町にある浄土宗の寺院。山号は五台山(ごだいさん)。本尊は釈迦如来(生身の釈迦)。開基は奝然、開山はその弟子の盛算(じょうさん)である。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名でも知られる。
宗派は初め華厳宗として開山し、その後天台宗、真言宗を兼ねた。室町時代より融通念仏宗の道場として発展した。また、幕末まで愛宕山白雲寺(現・愛宕神社)の山下別当寺であった歴史をもつ。

この寺の歴史には、阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という2つの寺院が関係している。

【棲霞寺の創建】

この地には、もともと嵯峨天皇の皇子で、「源氏物語」の主人公光源氏のモデルとされる左大臣源融822年 - 895年)の別荘栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号した。その後天慶8年(945年)に、重明親王妃が新堂を建て、等身大の釈迦像を安置した。一説では、「釈迦堂」の名の起こりはこの時であるという。

【清凉寺の成立】

棲霞寺草創から数十年後、に渡り、五台山(一名、清凉山)を巡礼した奝然938年 - 1016年)という東大寺出身の僧がいた。奝然は、宋へ渡航中の寛和元年(985年)、台州の開元寺で現地の仏師に命じて1体の釈迦如来像を謹刻させた。その釈迦像は、古代インド優填王(うでんおう)が釈迦の在世中に栴檀の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」や、釈迦に生き写しとされ、生きているお釈迦様「生身の釈迦」と呼ばれているものである。奝然は、永延元年(987年)日本に帰国後、京都の愛宕山を宋の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦如来立像を安置する寺・大清凉寺を建立しようとしたが、様々な障害に阻まれ、一旦京都の船岡山にある蓮台寺に釈迦像を運び込むことになる。

奝然は、三国伝来の釈迦像をこの嵯峨の地に安置することで、南都系の旧仏教の都における中心地としようとしたものと思われる。すなわち、都の西北方にそびえる愛宕山麓の地に拠点となる大清凉寺を建立することで、相対する都の東北方に位置する比叡山延暦寺と対抗しようとした、という意図が込められていたとされる。しかし、延暦寺の反対にあい、その願いを達しないまま長和5年(1016年)、奝然は没した。彼の遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が棲霞寺の釈迦堂に「栴檀の瑞像」(前述の三国伝来の釈迦像)を安置すると、釈迦堂は華厳宗の寺・五台山清凉寺と改変された。その後、華厳宗の他に天台宗真言宗を兼ねるようになる。また、愛宕山白雲寺(現・愛宕神社)の山下別当寺ともなった。

 

◯もちろん、清凉寺にはホームページが存在する。しかし、清凉寺の説明としては、ウィキペディアフリー百科事典の方が遥かに詳しく、丁寧である。したがって、当古代文化研究所としては、ウィキペディアフリー百科事典の方を紹介する。

◯ここの案内にもあるように、清凉寺の歴史は古く、長い。歴史にも紆余曲折がある。それは、ここで簡単に案内できるものでもない。できれば、二回三回くらいはブログに書く必要を感じる。しかし、ブログに書くべきことが多くて、その余裕が無い。

◯機会があれば、この続きを書きたい。できれば、再度、訪れて、ゆっくりお参りしたいところである。そういう機会が訪れることを祈念するしかない。