柿主や梢はちかきあらし山 | 古代文化研究所:第2室

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ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯京都、嵯峨野の落柿舎へ出掛けて来た。前回、ブログ『落柿舎』をものした。今回は、その続きで、落柿舎の様子を述べてみたい。その落柿舎の前には、次の案内板が設置してあった。

      落柿舎

   ここは、蕉門十哲の一人として名高い向井去来(慶安4年(1651)〜

  宝永元年(1704))の閑居の跡として知られている。当時、庭にあった

  四十本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、かねて買約中の商人

  を気の毒に思って価を返してやった。これが落柿舎の名の由来である。

  芭蕉も晩年、三度当庵を訪れて、名作「嵯峨日記」を著した。

   庭には去来のよんだ

     柿主や梢はちかきあらし山

  の句碑がある。

   去来は長崎の生まれ。芭蕉に師事して俳諧を学び、その芭蕉をして

  「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といわしめた。かつて武人で

  あった去来は極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど

  親に対するようであった。

   その句

     鴨なくや弓矢を捨てて十余年

  はよく知られている。

             京都市

◯落柿舎境内は、閑静そのものだった。ほとんど人も見掛けない。外の田舎道には、人が溢れていると言うのに。そういう意味では、落柿舎は、そういう観光ルートの中に入っていないのかも知れない。

◯お陰で、心静かに落柿舎を参観することができた。落柿舎は向井去来の別荘である。その去来が九州人であることが面白い。もっとも、「去来抄」の去来はなかなか面倒な男であるような気がしてならない。ただ、芭蕉と去来とは馬が合ったようだが。

◯もともと、芭蕉本人がもっとも面倒な男なのである。と言うか、曲者と言った方が正確かも知れない。去来とか曲水とかと、普通に付き合える人は少ない気がしてならない。そこが芭蕉の懐の深さを示している。余程の覚悟が無いと、去来や曲水と交わることは難しい気がする。

◯その証拠に、芭蕉の肖像を見ていただくと判るのだが、ほとんどの芭蕉の肖像は半僧半俗である。もともと芭蕉が目指しているのは風雅の道であるからして、何も半僧半俗である必要性など、無い。芭蕉が半僧反俗の体を作しているのには、もちろん、理由がある。

◯それは彼が憧れる先人が世捨て人だったからに他ならない。そのことは、「幻住庵記」に、次のように記す。

   我、強いて閑寂を好むとしなけれど、病身人に倦みて、世を厭ひし

  人に似たり。如何にぞや、法をも修せず、俗をもつとめず、仁にもつ

  かず、義にもよらず、唯だ若き時より横ざまに好けることありて、暫

  く生涯のはかりごととさへなれば、萬のことに心を入れず、終に無能

  無才にして此の一筋に繋がる。凡そ西行宗祇の風雅に於ける、雪舟の

  画に於ける、利休が茶に於ける、賢愚等しからざれども、其の貫道す

  るものは一ならむと、背を押し腹をさすり、顔しかむるうちに、覚え

  ず初秋半ばに過ぎぬ。一生の終わりもこれに同じく、夢の如くにして

  又々幻住なるべし。

◯つまり、西行宗祇が彼の目指すところであったことは、言うまでもない。ただ、芭蕉は西行宗祇を遥かに越えた境地にまで、達している。ある意味、それは、日本人の到達した最高位であると、当古代文化研究所では、判断している。

◯それが芭蕉の精神性にあることだけは、間違いない。芭蕉は、

  法をも修せず、俗をもつとめず、仁にもつかず、義にもよらず、

と正直に回顧し告白しているが、これを字面通りに受け取ってはなるまい。

◯芭蕉は、極めて、用心深い。ここでも、その本心は決して明かさない。したがって、芭蕉の読者は、それを行間に読み取るしかできない。それが芭蕉が曲者である所以である。

◯芭蕉を追い続けると、最後に行き着くのは、道家思想になる。そのことを、芭蕉はひたすら、隠し続ける。結果、芭蕉が半僧半俗であるのも、実は、道家思想に基づくものであることが判る。日本に居て道家思想を唱えるには、半僧半俗しか無いのだから。それが芭蕉の正体である。