○項楚著「寒山詩註」がその最後に載せている作品が拾得佚詩、『喧靜各有路(拾佚6)』詩となっている。この『喧靜各有路(拾佚6)』詩を読んで、軽い衝撃を受けた。このことについては、当然、ブログ『拾得佚詩6首:喧靜各有路(拾佚6)』の中で、説明すべきだった。
○ただ、話があまりに大き過ぎて、ブログ『拾得佚詩6首:喧靜各有路(拾佚6)』の中では、到底、説明し切れないと判断した。それで、別にブログを改めて書こうと思っていた。それがここまで、説明できずにいる。それで、今回はその話になる。
○と言うのも、項楚著「寒山詩註」では、『喧靜各有路(拾佚6)』詩が拾得の作品では無いことを明言しているからである。それは唐の釋護国の作品「歸山作」であって、「全唐詩」巻八一一に見えるとする。
○日本で、「全唐詩」は、なかなかお目にかかれないので、百度百科で検索すると、次のページがヒットした。
归山作
《归山作》是唐代诗僧——护国创作的一首五言诗。
【作品原文】
归山作
喧静各有路 偶随心所安 纵然在朝市 终不忘林峦
四皓将拂衣 二疏能挂冠 窗前隐逸传 每日三时看
靳尚那可论 屈原亦可叹 至今黄泉下 名及青云端
松牖见初月 花间礼古坛 何处论心怀 世上空漫漫
○まさに、これは項楚著「寒山詩註」が載せる拾得佚詩『喧靜各有路(拾佚6)』詩そのものであることが判る。つまり、『喧靜各有路(拾佚6)』詩は拾得の作品では無い。護国の作品であることが判る。
○加えて、護国の作品である「歸山作」が何とも立派な作品であることに、驚く。これは決して、寒山や拾得の作品では無い。相当高尚な唐詩であることに感心させられる。ある意味、寒山や拾得にこの作品は書けない。そんな気がしてならない。
○そういう作品を項楚が「寒山詩註」の最後に持って来ていることが気になる。項楚は寒山詩や拾得詩の最後に、この作品を持って来ることで、寒山詩や拾得詩がどういうものであるかを案内したかったのではないか。そんなふうに感じた。
○護国の「歸山作」がどういう作品であるかは、次のブログに詳細に書いている。
・テーマ「寒山詩」:ブログ『拾得佚詩6首:喧靜各有路(拾佚6)』
拾得佚詩6首:喧靜各有路(拾佚6) | 古代文化研究所:第2室 (ameblo.jp)
○護国の「歸山作」詩は、何とも凄まじい作品である。こういう詩人や作品が、何気なく平気で唐突に出現する。それが中国文学の奥深さを物語る。中国を歩いていると、よくこういう作品や詩人に遭遇する。中国は何とも恐ろしい国である。
○そういうことは、護国の「歸山作」詩を読むと、すぐ判る。その護国について、中国の検索エンジン百度百科ですら、全然、不案内なのに、驚き呆れる。それが中国文学なのである。
○昔々、確か、フランスの哲学者だったと思うが、
文学は哲学のすぐ隣にある。
と言った話を聞いたことがある。しかし、中国では哲学も歴史も思想ですら、文学そのものなのである。それも、そういうことが紀元前の五百年の昔から続いている。それが文字の国、中国の恐ろしさであり、凄さである。