○項楚著「寒山詩註」は、寒山詩に続けて、拾得詩57首と佚詩6首を載せている。どうせなら、全部を訳し終えたい。それで、拾得詩の訳となる。今回が第55回で、『閑自訪高僧(拾55)』詩になる。
【原文】
閑自訪高僧(拾55)
閑自訪高僧 青山與白雲 東家一稚子 西舎衆羣羣
五峯聳雲漢 碧落水澄澄 師指令歸去 月下一輪燈
【書き下し文】
閑自なるに、高僧の訪れ、
青山と白雲と。
東家には、一稚子、
西舎には、衆の羣羣。
五峯は雲漢に聳え、
碧く水は澄澄と落つ。
師の歸去しむるに指せば、
月下、一輪燈あり。
【我が儘勝手な私訳】
天台山は閑寂なところで、立派な僧が居て、
その天台山にあるのは青々とした山と清々しい白雲。
天台山の東の僧房には、若い僧が一人いて、
天台山の西の僧房には、多くの僧が群れている。
天台山の五峯は雲間に聳え立ち、
谷川には清流が滔々と流れ落ちている。
師の僧が帰ると言うので、帰り道を案内すると、
そこには明るい月が一輪、山道を照らしてくれていた。
○今回の『閑自訪高僧(拾55)』詩は、寒山詩『閑自訪高僧(166)』と同じ内容の作品であることを、項楚著「寒山詩註」が指摘している。それはその通りだとするしかない。
○ただ、寒山詩『閑自訪高僧(166)』は五言絶句で、何とも短い。それに対して、拾得詩の『閑自訪高僧(拾55)』詩は五言律詩である。したがって、寒山詩『閑自訪高僧(166)』と拾得詩の『閑自訪高僧(拾55)』詩が同じであることはあり得ない。
○今回の『閑自訪高僧(拾55)』詩は、最後が、
日下一輪燈
となっている。しかし、それでは意味をなさない。寒山詩『閑自訪高僧(166)』にしたがって、それを、
月下一輪燈
に改めた。そうしないと、意味をなさない。項楚著「寒山詩註」も、そのことを指摘している。