○「日本書紀」全三十巻の最後を飾るのが高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめすめらみこと)である。漢風諡号は持統天皇と申し上げる。持統天皇は女性の天皇である。
○「日本書紀」の持統天皇紀を読むと、異常に吉野宮御幸が多いのに、驚かされる。持統天皇は持統天皇三年一月十八日から、持統天皇十一年四月七日に至る九年間に、三十一回もの吉野詣でを繰り返している。年平均にして、およそ3、5回。これはどう考えても、尋常な数字ではない。
○何がそれだけ、持統天皇を吉野へ引き付けたのか? 寡聞にして、そういう話を聞いたことがない。それで、吉野山とは何者か? そういうことを考えた次第である。
○吉野山は、古来、歌枕として、知られる。また、『花は吉野』と言って、桜の名所として、現在でも有名である。しかし、よくよく考えると、誰も吉野山がどういうところか、満足に理解していないのではないか。そういうことを感じた。
○そういう意味で、当古代文化研究所が付き止めたのが、吉野山の正体である。
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○結論だけを述べると、吉野山の正体は可愛山陵だと言うことになる。つまり、持統天皇の吉野詣では、祖霊信仰に基づくものであったことが判る。それなら、持統天皇が九年間に、三十一回もの吉野詣でを繰り返したことも納得される。
○もっとも、吉野山の正体は可愛山陵だと言ったところで、多くの人々は可愛山陵がどういうところであるかも、ご存じ無いのではないか。可愛山陵とは、天孫降臨の尊、彦火瓊々杵尊の御陵のことである。
○したがって、可愛山陵が大和国に存在することはあり得ない。彦火瓊々杵尊が天孫降臨したのは、日向国なのだから。可愛山陵の所在地は、もちろん、日向国だと言うことになる。
○それなら、吉野山の正体が可愛山陵だと言うことは、何を意味するか? それは可愛山陵の先坣僑位が吉野山だと言うことである。今時、先坣僑位と言う言葉もなかなか目にしない。先坣僑位とは、故郷を離れた者がその先祖を祀るために建てた墓を意味する。昔なら、それはごく当たり前のことだった。
○持統天皇(645~703)が吉野詣でを繰り返していたころ、ほぼ同時代に吉野山で修業をしていたのが、役行者、役小角(634~701)である。吉野山の伝承では、役小角が吉野山で修業し、感得したのが修験道と言うことになっている。
○そういう多くの文化が混在するのが吉野山である。当古代文化研究所では、「日本書紀」が記録する吉野山だけではなく、「万葉集」の吉野山、「古今和歌集」の吉野山、「新古今和歌集」の吉野山などを追及している。詳しくは、上記のテーマ「吉野山の正体」をご覧いただきたい。