古代文化研究所:第2室

古代文化研究所:第2室

ブログ「古代文化研究所」で、書き切れなかったものを書き継いでいます。

◯2023年1月31日、随分久し振りに明日香村を訪れた。近鉄飛鳥駅前で、レンタルバイクを借りて、多武峯を目指した。以前から多武峯は気にはなっていたが、なかなか訪れる機会が無かった。それで、この機会に訪れることとした。

◯ところが『奈良県道155号多武峯見瀬線』を登って行くと、標高300mを超えたあたりから、残雪が目立ち、標高350mあたりから先は、凍結していて、バイクで登れるふうでは無かった。この峠道の標高は500mを超える。

◯それで、結局、多武峯へ行くことを断念せざるを得なかった。その時の詳しい話を前回、次のブログで案内した。

  ・テーマ「京都奈良大阪を歩く」:ブログ『奈良県道155号多武峯見瀬線』

 

◯明日香村へ下りながら、次に、何処へ行くかを思案しながら降りていった。そう言えば、岡寺にも長いことお参りしていない。せっかくなら、岡寺へお参りしようと思って出掛けた。

◯明日香村役場のところに、鳥居があって、岡寺参道となっている。鳥居から岡寺までは500mから600mくらいである。ただ、参道は、極めて道が狭い。やっと車が通れるくらいしかない。対向車があったら、たいへんである。

◯ウィキペディアフリー百科事典が案内する『岡寺』は、次の通り。

      岡寺

岡寺(おかでら)は、奈良県高市郡明日香村岡にある真言宗豊山派寺院山号は東光山。院号は真珠院。本尊日本最大の塑像である如意輪観世音菩薩(如意輪観音)。龍蓋寺(りゅうがいじ)とも称し(後述)、詳しくは東光山真珠院龍蓋寺という。西国三十三所第7番札所。

本尊真言:おん はんどめい しんだまに じんばら うん

ご詠歌:けさみれば露(つゆ)岡寺の庭の苔 さながら瑠璃(るり)の光なりけり

東大寺要録』「義淵伝」、『扶桑略記』等によれば、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。この時、同時に龍門寺なども建立された。史料上の初見は、天平12年(740年)7月の写経所啓(『正倉院文書』)である。

義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁行基などがいた。それゆえ法相宗の興福寺の末寺であった。江戸時代長谷寺化主(住職)法住が入山して当寺を復興し、中興第一世となって以降、長谷寺の末寺となって真言宗豊山派に属する。

 

◯岡寺の開基は、義淵僧正(643~728)と言うから、何とも古い。ウィキペディアフリー百科事典が案内する『義淵僧正』は、次の通り。

      義淵

義淵(ぎえん・ぎいん、皇極天皇2年(643年) - 神亀5年10月20日728年11月25日))は、奈良時代法相宗。『続日本紀』によると俗姓は市往氏であるが、『扶桑略記』では大和国高市郡の出身で俗姓を阿刀氏とする。

『扶桑略記』や『東大寺要録』では、父母が長年観音菩薩に祈願して授かった子で、天武天皇により皇子とともに岡本宮で養育されたという。出家して元興寺に入り唯識・法相を修め、龍蓋寺(岡寺)、龍門寺などの5ヶ龍寺を創建した。文武天皇3年(699年)、学行褒賞で稲1万束を賜り、大宝3年(703年)に僧正に任じられた。元正聖武両天皇の下で内裏に供奉した。『続日本紀』には、先代からの行いを称され727年(神亀4年)に岡連のを賜り兄弟に仕えることを許された、とある。

『三国仏法伝通縁起』によれば、弟子に玄昉行基隆尊良弁などがおり、道慈道鏡なども『扶桑略記』や『東大寺要録』では、父母が長年観音菩薩に祈願して授かった子で、天武天皇により皇子とともに岡本宮で養育されたという。出家して元興寺に入り唯識・法相を修め、龍蓋寺(岡寺)、龍門寺などの5ヶ龍寺を創建した。文武天皇3年(699年)、学行褒賞で稲1万束を賜り、大宝3年(703年)に僧正に任じられた。元正・聖武両天皇の下で内裏に供奉した。『続日本紀』には、先代からの行いを称され727年(神亀4年)に岡連の姓を賜り兄弟に仕えることを許された、とある。
『三国仏法伝通縁起』によれば、弟子に玄昉・行基・隆尊・良弁などがおり、道慈・道鏡なども義淵の門下であったという。

 

 

◯2023年1月31日、随分久し振りに明日香村を訪れた。近鉄飛鳥駅前で、レンタルバイクを借りて、多武峯を目指した。以前から多武峯は気にはなっていたが、なかなか訪れる機会が無かった。それで、この機会に訪れることとした。

◯途中、明日香村の中心を通って、石舞台を経て、多武峯に行くことになる。今回、このルートで多武峯を目指して、いろいろと知らないことがあって、それに、まず、驚いた。

◯と言うのも、多武峯、談山神社は藤原鎌足を祀っている神社だから、当然、飛鳥から行くものとばかり思っていた。それに、住所も明日香村になるものとばかり思っていた。それが檀林神社は桜井市多武峯だと言うのだから、驚いた。

◯もっと驚いたのは、この『奈良県道155号多武峯見瀬線』がずっと未通であって、なんと2009年(平成21年)12月18日になって、やっと開通したと言う事実である。それまでは、歩いて行くしかなかった道だと言う。何とも疎い話である。

◯したがって、情報も少ない。第一、『奈良県道155号多武峯見瀬線』の情報がほとんど無いのだから、それにも、驚いた。ウィキペディアフリー百科事典が案内する『奈良県道155号多武峯見瀬線』は、次の通り。

      奈良県道155号多武峯見瀬線

奈良県道155号多武峯見瀬線(ならけんどう155ごう とうのみねみせせん)は、奈良県桜井市八井内から橿原市見瀬町に至る一般県道

桜井市西口から明日香村上までの区間が長らく未通であったが、2009年平成21年)12月18日に開通した。当道路の開通によって、明日香村から多武峰(多武峯)、さらに奈良県道37号桜井吉野線を経て吉野町ふるさと農道を経て宇陀市と結ばれ、奈良県東部の観光地へのアクセス改善が期待される。ただし、竜門山地北嶺の標高が概ね250 - 490m程度の場所を通るため勾配が大きく、冬季は積雪のため通行には注意を要する。さらに、石舞台から多武峯へのハイキングコースと交差するため歩行者の横断にも注意が必要である。

 

◯10時30分過ぎに、石舞台を出発して、いよいよ談林神社を目指すことにした。道は頗る広くて立派だった。何の心配もすることなく、登って行った。ただ、道の傾斜は厳しい。

◯石舞台あたりの標高は、150mくらいである。次第に登って行くと、細川あたりで、標高は200mを超えた。写真では、畑・冬野の分岐になる。さらに登って行くと、大きな橋があって、ここら付近が「上(かむら)」集落で、標高は300mを超えた。

◯驚いたことに、この付近には、雪が残っているのが確認された。これでは、これ以上登って行くのは厳しい気がした。それでも、せっかく、ここまで来たのだから、行けるところまで行ってみようと登って行ったら、標高350mあたりで、完全に道が凍結していた。

◯考えてみたら、この日は2023年1月31日だった。真冬そのものである。この辺りでは、山間部は雪に閉ざされることがしばしばあるらしい。何とも迂闊な話である。結局、標高350mあたりで引き返すこととした。ちなみに、この峠の最高点は標高500mくらいである。

◯多武峯を目指したが、途中で、引き返す結果となってしまった。何とも残念だが、無理はできない。なかなか談林神社詣では果たせない。実際、談林神社へ参詣できたのは、2023年5月14日のことだった。再度挑戦して、やっと詣でることができた。

 

◯2023年1月31日、随分久し振りに明日香村を訪れた。近鉄飛鳥駅前で、レンタルバイクを借りて、多武峯を目指した。以前から多武峯は気にはなっていたが、なかなか訪れる機会が無かった。それで、この機会に訪れることとした。

◯途中、明日香村の中心を通って、石舞台を経て、多武峯に行くことになる。今回、このルートで多武峯を目指して、いろいろと知らないことがあって、それに、まず、驚いた。

◯と言うのも、多武峯、談山神社は藤原鎌足を祀っている神社だから、当然、飛鳥から行くものとばかり思っていた。それに、住所も明日香村になるものとばかり思っていた。それが檀林神社は桜井市多武峯だと言うのだから、驚いた。

◯もっと驚いたのは、この『奈良県道155号多武峯見瀬線』がずっと未通であって、なんと2009年(平成21年)12月18日になって、やっと開通したと言う事実である。それまでは、歩いて行くしかなかった道だと言う。何とも疎い話である。

◯したがって、情報も少ない。第一、『奈良県道155号多武峯見瀬線』の情報がほとんど無いのだから、それにも、驚いた。ウィキペディアフリー百科事典が案内する『奈良県道155号多武峯見瀬線』は、次の通り。

      奈良県道155号多武峯見瀬線

奈良県道155号多武峯見瀬線(ならけんどう155ごう とうのみねみせせん)は、奈良県桜井市八井内から橿原市見瀬町に至る一般県道

桜井市西口から明日香村上までの区間が長らく未通であったが、2009年平成21年)12月18日に開通した。当道路の開通によって、明日香村から多武峰(多武峯)、さらに奈良県道37号桜井吉野線を経て吉野町ふるさと農道を経て宇陀市と結ばれ、奈良県東部の観光地へのアクセス改善が期待される。ただし、竜門山地北嶺の標高が概ね250 - 490m程度の場所を通るため勾配が大きく、冬季は積雪のため通行には注意を要する。さらに、石舞台から多武峯へのハイキングコースと交差するため歩行者の横断にも注意が必要である。

 

◯10時30分過ぎに、石舞台を出発して、いよいよ談林神社を目指すことにした。道は頗る広くて立派だった。何の心配もすることなく、登って行った。ただ、道の傾斜は厳しい。

◯石舞台あたりの標高は、150mくらいである。次第に登って行くと、細川あたりで、標高は200mを超えた。写真では、畑・冬野の分岐になる。さらに登って行くと、大きな橋があって、ここら付近が「上(かむら)」集落で、標高は300mを超えた。

◯驚いたことに、この付近には、雪が残っているのが確認された。これでは、これ以上登って行くのは厳しい気がした。それでも、せっかく、ここまで来たのだから、行けるところまで行ってみようと登って行ったら、標高350mあたりで、完全に道が凍結していた。

◯考えてみたら、この日は2023年1月31日だった。真冬そのものである。この辺りでは、山間部は雪に閉ざされることがしばしばあるらしい。何とも迂闊な話である。結局、標高350mあたりで引き返すこととした。ちなみに、この峠の最高点は標高500mくらいである。

◯多武峯を目指したが、途中で、引き返す結果となってしまった。何とも残念だが、無理はできない。なかなか談林神社詣では果たせない。実際、談林神社へ参詣できたのは、2023年5月14日のことだった。再度挑戦して、やっと詣でることができた。

 

◯2023年1月31日、随分久し振りに明日香村を訪れた。多分、4回目か5回目の訪問になるのではないか。飛鳥の名所と言えば、石舞台だろう。この日も、近鉄飛鳥駅前で、レンタバイクを借りて行った。最終目的地は多武峰のつもりだった。

◯ずっと以前は、石舞台には、何もなかった。ただ公園みたいなところがあって、芝生の中に、石舞台が存在し、登ろうが中を覗こうが、自由だった。長くそういう状況だったような気がする。もちろん、金を取られることも無かった。

◯そのうちに、立派な鉄格子の柵が出来て、外から眺めるだけで、全然、石舞台に触ることもできなくなった。石舞台は、立派な史跡である。当然と言えば、当然だろう。そう思って眺めたこともあった。その時には、確か、料金を取られた記憶がある。

◯今回、訪れたら、石舞台は、更に、様変わりしていた。嘗ての鉄格子は撤去され、再び、自由に中へ入れるようになっていた。さすがに、上に登ることは出来そうにない。それでも、直に触れられるのは、有り難い。

◯もっとも、もともとお墓なのである。墓域に、こうして自由勝手に入ること自体が不謹慎な気もする。ただ、墓の大きさだけは実感できる。だから、こうやって、開放されたに違いない。ただ、ここに眠っている人には迷惑千万そのものだろう。

◯インターネットで検索したら、「国営飛鳥歴史公園 石舞台古墳」が出て来て、次のように説明があった。

      国営飛鳥歴史公園 石舞台古墳

国営飛鳥歴史公園内石舞台周辺地区の中央に位置するわが国最大級の方墳です。
墳丘の盛土が全く残っておらず、巨大な両袖式の横穴式石室が露呈しているという独特の形状です。
天井石の上面が広く平らで、まるで舞台のように見えるその形状から古くから「石舞台」と呼ばれています。

30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。
被葬者は明らかではありませんが、7世紀初頭の権力者で、大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父でもある蘇我馬子の墓ではないかといわれています。

1933(昭和8)年~35(昭和10)年の発掘調査で方形の墳丘、堀、外堀が存在すること、6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されており、その上で築造は7世紀初め頃と推定されています。

 

◯別に、「奈良県観光公式サイト なら旅ネット」には、次のように載せる。

      石舞台古墳

6世紀の築造。巨石30個を積み上げて造られた石室古墳。その規模は日本最大級を誇る。盛土が失われて、露出した天井石の上面が平らなことにちなんで、石舞台と呼ばれる。墳丘は1辺50mの方墳で、周囲には幅8.4mの濠がめぐる。石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6m。石の総重量は推定2,300t、古墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t、北側約64tもあるという。この巨大古墳が誰の墓なのかは不明であるが、付近に蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の墓ではないかとの説が有力である。また、石室が露出しているのは、馬子の横暴な態度に反発した後世の人が封土を取り除いたためともいわれている。周囲は芝生広場になっており、春は桃やサクラ、秋は彼岸花が咲く。

 

◯正式には、石舞台古墳と言うのであろう。普通、石舞台と呼ぶ。これが古墳であれば、まさにどんな大きさの古墳か、想像を絶する。尋常の墓では無いことだけは、確かである。

◯今でも結構な高さがある。これに盛り土が存在したはずである。そうであれば、ここから飛鳥全体が見えたのでは無いか。そんな気がする。飛鳥川の畔にあって、川を下れば飛鳥の集落になる。つまり、飛鳥の一等地に存在するのが石舞台であることが判る。

 

◯2023年1月31日は、近鉄電車に乗って京都駅から飛鳥駅まで行った。近鉄京都駅を8時30分過ぎに出て、10時前にはもう飛鳥駅に着いていた。飛鳥駅前にはレンタサイクル屋さんが幾つかある。その中で、レンタバイクがあったので、それを借りることにした。

◯と言うのも、飛鳥界隈は坂が多い。自転車も結構たいへんである。そのことは、以前、ここでレンタサイクルを借りて経験済みだった。結果的には、レンタバイクを借りたことが大正解だった。それは季節が冬だと言うことを完全に失念していたからである。

◯最初に目指したのは、石舞台である。飛鳥で最も有名なところではないか。実は、石舞台の先に多武峰がある。最終的には、多武峰へ参詣することが、飛鳥訪問の目的だった。それで、途中の石舞台に立ち寄ったわけである。

◯石舞台を案内する前に、明日香村について、述べておきたい。飛鳥の行政区分は奈良県高市郡明日香村になる。駅の名は飛鳥で、村の名は明日香村になる。同じ「あすか」でも、こういうふうに使い分けているのが、何とも面白い。

◯ウィキペディアフリー百科事典が案内する明日香村は、次の通り。

      明日香村

明日香村(あすかむら)は、奈良県の中央部付近、奈良盆地大和平野)の南端近くに位置するである。高市郡に属す。中央集権律令国家の誕生の地であることから、飛鳥時代の宮殿や史跡が多く発掘されていることで知られ、「日本人の心の故郷」とも紹介される。

日本で唯一、全域が古都保存法対象地域の自治体である。また、村全体の世界遺産登録に向けた計画が具体化している。

遺跡景観保全のため、明日香村特別措置法によって村内全域が歴史的風土保存の対象となっており開発や建築物の規制が厳しい。

 

◯村自体は、五千人ほどの人口とある。ある意味、日本はここから始まっている。それが今でも、こういう小さな村であることが何とも興味深い。上記説明に、

   明日香村(あすかむら)は、奈良県の中央部付近、奈良盆地大和平野

  の南端近くに位置するである。

とあるように、まさに、奈良県の中央部に位置するのが明日香村である。奈良県は南北にたいへん長い。北は奈良市から、南は熊野本宮大社近くの十津川村までが奈良県なのである。

◯「とぶとりのあすか」は、今でもなお、山間の中に存在する。それが「飛鳥」であり「明日香」村なのである。「そらみつやまと」国は山下国であり、山本国、山元国であることは言うまでも無い。もっとも、「やまと」地名は、もともと日向国のものである。