○2025年5月30日、曲阜の三孔にお参りした。1990年と2015年の参詣に引き続き、三度目の参拝である。一度や二度、参詣して理解できるほど、頭の出来が良くない。仕方が無いから、こうやって何度も参拝を繰り返すしかない。
○お参りする度に理解が深くなっていることは間違いない。今回、朝一番に孔林を訪れた。それで、これまで、ブログ『三孔』、『圣林庙神道』、『至圣林坊・至聖林坊』、『孔林』、『孔子墓甬道』、『孔子墓』と、ブログを書いている。
○孔子は、紀元前六世紀の人物である。現代まで、残されているのは、せいぜい、孔子とその弟子達の言行録とされる「論語」くらいのものである。また、紀元前一世紀ころに、司馬遷が「史記」に、『孔子世家』を記録している。
○司馬遷の『孔子世家』にしたところで、500年後の記録に他ならない。二十一世紀の現代からすれば、もう2,500年前の人物が孔子なのである。その孔子がどんな人だったか。甚だ、気になる。それで、このように、曲阜詣でを繰り返している。
○実は、曲阜に来る前、江蘇省の宿遷へ出掛けて来た。宿遷は項羽の故郷なのである。項羽が亡くなった烏江には2014年6月20日に、お参りしている。
・テーマ「西楚覇王霊祠」:ブログ『西楚覇王霊祠』
○どうしても一回は、項羽の生まれたところを訪れてみたかった。それがようやく実現した。
・テーマ「玄中寺参詣旅」:ブログ『項王故里』
○司馬遷は「史記」の中で、項羽について、『項羽本紀』として記録している。項羽は西楚覇王であって、皇帝では無い。それなのに、司馬遷は、項羽を『項羽本紀』として記録すると言う破格の扱いをしている。
○それは司馬遷にとって項羽が特別な存在だからである。そのことは、実際、『項羽本紀』を読むと、よく判る。今どき、『項羽本紀』など、なかなか読んでもらえないが、司馬遷の「史記」の中で、至高の名作が『項羽本紀』であることは、衆目の一致するところではないか。
○もちろん、当古代文化研究所も、『項羽本紀』は何度も読んでいるし、書写したこともある。驚くべきことに、『項羽本紀』の本文の字数は「6996字」なのである。誰も言及しないが、当古代文化研究所では、しっかり数えている。
○司馬遷は「太史公自序」の中に、自らの著作を、
五十二万六千五百字
と断じている。そんな司馬遷が『項羽本紀』に要した字数は七千字だと言う。何と恐ろしい男か。とても人間のなせる業ではない。それが司馬遷であり、「史記」であり、『項羽本紀」 なのである。
○同じように、司馬遷にとって、もう一人の特別な存在が孔子になる。孔子は思想家であって、何も諸侯の身分などではない。その孔子を、司馬遷は「史記」の中で、『孔子世家』として、記録している。項羽同様、孔子もまた、司馬遷にとっては、特別な存在であったことは、言うまでもない。
○もっとも、孔子は司馬遷だけにとって、特別な存在であるわけではない。中国人民にとっても特別な存在であることは間違いない。ただ、孔子をいち早く特別な存在だと認めた一人が司馬遷であることは、歴史が物語っている。なかなかそういう視点で人は司馬遷を評価していない。
○中国で、学問の神様が孔子であることは間違いない。中国の何処に行っても、夫子廟、孔廟、孔子廟、文廟は存在する。その夫子廟、孔廟、孔子廟、文廟で祀られているのが孔子なのである。
○現代の日本では、学問の神様と言えば、菅公だと思っている人が多い。しかし、江戸時代までは、日本でも、学問の神様は孔子だった。意外と、そういうことが理解されていない。江戸時代までは、学問と言えば、漢学と決まっていたからである。
○当古代文化研究所は、そういう意味で、何度も曲阜を訪れている。今回、曲阜で印章を作った。作って下さったのは、孔子第七十七代の子孫、孔徳軍さんとおっしゃる。何が凄いかと言えば、孔子の子孫が彫ってくれた印象を持っている。それが自慢である。詳しくは、次のブログに書いている。
・テーマ「玄中寺参詣旅」:ブログ『散宝房』
○孔林参詣を終えて、最後に、こういう話を書いておきたい。





























