宮沢城   葛西大崎一揆において一揆勢が立て籠った城   ~宮城県大崎市~ | 攻城日記/3rd ~城逢人~

攻城日記/3rd ~城逢人~

中世城館・板碑好きのマニアの日々の記録

宮沢城は何度か訪れたことがあります

しっかり見学したことがなかったので気合を入れて見学しました

その結果、思ったいた以上に遺溝が残っていることを知りました


現在は宅地、耕作地となりますが主郭の土塁が一部残ります
今回は宮沢遺跡の入口にある宮沢城の縄張り図を参考に見学しました
主郭の南西にある光岳寺は出郭であることを知ってコチラも見学しました
寺を囲むように土塁が残っています

↓出郭である光岳寺


↓光岳寺の土塁状の地形

宮沢城は戦国当時には湿地に囲まれた要害であり
各曲輪は独立した島のような構造だったと思われます

光岳寺の門前は城下であったのでしょう
城下町らしい道や街並みが見られます

↓下屋敷の土塁

宮沢城は平安時代に藤原秀郷が拠った城と伝わります
低湿地に囲まれた微高地に築かれています
東方に位置する宮沢遺跡との関係から平安期から城館が
存在したのかもしれません

↓主郭の土塁

平安末期には長岡郡の郡司・平資幹の居城
であったと伝わります
時代は下り戦国期には大崎家臣・葛岡太郎左衛門、
宮沢遠江、岩崎讃岐義久が拠ったといわれます

天正18年(1590)の大崎一揆では大崎旧臣が立て籠もり
一揆勢の拠点となります
一揆勢は周辺の川を堰き止め城内に引き入れ水堀として
伊達軍を撃退しました
このときは伊達、一揆両軍ともに裏で繋がっており
本気で戦っていなかったといわれています

↓宮沢城の縄張り(現地解説板より)

江戸期には伊達家臣の後藤氏、上郡山氏、長沼氏が
城主(館主)となり明治維新まで存続しました

本当に平安期から明治維新までの長期間使用された
城館であるならば非常に貴重であります

 

↓宮沢城の航空写真(電子国土空中写真1974~78を使用して作図)



参考  古川市史/ 第1巻 通史編
     仙台領内古城・館 3巻/ 紫桃正隆
     現地案内板