物部大連・蘇我大臣は共に九州王朝の人物であった   

黒澤 正延

 

一,H・S氏から一通のメールが届いた。「乙巳の変」を巡る「蘇我馬子」について,氏は「近畿天皇家に対する目付け代官的な地位にいた」との見解を述べていた。この見解について,実は私も従来から同様な見解をもっていました。

 ただ,氏は,「九州倭国が推進していた仏教文化を(蘇我氏が)いち早く畿内に導入。(その結果)九州倭国の信頼を得ていた。」それによって「倭国の威光を背景に近畿豪族に君臨していた。」と論じています。

 しかし,蘇我氏は「大臣」に任ぜられています。蘇我氏が畿内豪族のトップとの見解に立つのであれば,近畿天皇家の臣下としての「大臣」でしかありません。それが,「九州倭国」に意を通じ,かつ主君の目付代官的な役割を演じていたとすれば,それは明らかに主君に対するスパイ的な裏切り行為ではないでしょうか。

 それも,ある時期突然に生じたものではなく,仏教文化を採りいれ「飛鳥寺」を建造していたことと考え合わせると,六世紀末から「九州倭国」の信頼を得ていたこととなり,目付的スパイ行為は七世紀初頭からはじまっていたと考えざるを得ません。

 では,「蘇我氏」は本当に「近畿天皇家」配下の「大臣」と考えられるのか,再考が必要と思われます。

 

二,「書紀」敏達即位前紀に「物部弓削守屋大連を以て大連とすること,故の如し。蘇我馬子宿祢を以て大臣とす。」との記述があります。これによれば,「大連」も「大臣」も同一の主人(敏達天皇)によって任ぜられていることが分かります。

これを遡る宣化即位前紀には「物部麁鹿火をもて大連とすること,故の如し。又蘇我稲目宿禰を以て大臣とす。」として,宣化天皇により両者がそれぞれ「大連」「大臣」に任ぜられたとされています。

 さらに遡る安閑即位前紀には「物部麁鹿火大連をもて大連とすること,故の如し。」としています。

 

 これらの記述から言えることは,「大連」を任じた人物も「大臣」を任じた人物も同一人物であった,ということだと考えられます。

 そこで,継体時代の「物部・蘇我」関連について「書紀」をみてみますと,継体二二年の条に「是の月に,物部伊勢連父根等遣して,津を以て百済の王に賜ふ。」との記述があります。この「物部伊勢連父根」について,岩波版「日本書紀」(三)は「九年二月条の物部至至連に同じであることは疑いない」としています。

 

更に,継体九年二月の条では,「百済の使者文貴将軍が帰国する際,物部連が将軍に副えて遣わされた」とし,「物部連」の名は未詳としている。ただ,割注で「百済本記」では「物部連至至と言っている」と記しています。

 又更に遡ると継体六年十二月の条に「百済が任那国の四県割譲を願い出た」記事があり,物部大連麁鹿火が勅宣の使者に宛てられたことが記されています。

 そして,継体元年二月の条に「許勢男人大臣をもて大臣とし,物部麁鹿火大連をもて大連とすること,故の如し。」との記述もあります。

 

 以上を総括すると,

①継体元年に「物部麁鹿火」は「大連」に任じられていた。

②「蘇我氏」は宣化紀まで現れず,「物部麁鹿火が,再度大連に任じられた」時同時に,初めて「大臣」に任じられた。

③任じた支配者は,当然のことながら同一人物である。

 

三,前述のような総括を前提に「書紀」を見返すと,一つの大きな疑問にぶつかります。

 それは,「百済が四県割譲を願い出た」相手は,本当に「近畿天皇家の継体天皇」であったのか,という疑問です。

 

 そもそも「書紀」自体が,継体二十年九月の条で「遷りて磐余の玉穂に都す。一本に云はく,七年なりと云ふ」として,継体(男大迹王)が容易に都入りできなかったと記しています。こうした状況下にあって百済が,都入り以前の継体六年に「四県割譲」などといったことを継体天皇(男大迹王)に願い出ることなど有り得ようか,との疑問です。換言すれば,そういった願い事を聞き入れることができる立場にあったのだろうか,という疑問です。

 事はそれだけではない。百済に対する優越的な立場で記されている「書紀」の継体紀の外交姿勢をみると,そうしたことができたのは,「近畿天皇家」ではなく「九州王朝」ではなかったか,と思われるのです。

 

四,その意味するところは何か。それは「物部麁鹿火は,九州王朝下の大連」であった,ということではないだろうか。

 そして,やがて「物部麁鹿火が大連に,蘇我稲目が大臣に共に任じられた」とするならば,両者は共に「九州王朝」配下の人物であった,考えざるを得ないのではないでしょうか。その後「物部守屋と蘇我馬子」がともに「大連,大臣」に任じられたのも「九州王朝」によってであった,と考えます。

 

五,最後に私見の結論を言いますと,「蘇我入鹿」は「近畿天皇家」配下の人物ではなく,「九州王朝」の命を受けて「近畿天皇家」の目付的役割を果たしていたのではないか,と考えるものです。

 ちなみに,「九州王朝」からみて,こうした地方豪族を監視するシステムこそが「国司」制度であり,その初発のモデルケースとなったのが,「蘇我氏による近畿天皇家の監視」の方式ではなかったか,とも考えています。

 

六,なお,当ブログ「物部・蘇我の抗争」論において,その舞台は北部九州であり,抗争の主因は「仏教受容を巡る対立」ではなく「九州王朝による竹斯国の奪還」との見解を示してきましたが,この見解を裏付けるものであるとも考えています。