「閑話休題」(六六)

 

一,過日,和田昌美氏の御厚意により,古田武彦著・平松健編「鏡が映す真実の古代」(ミネルヴァ書房)の書籍を頂戴した。

 古田氏のミネルヴァ・シリーズ本のほとんどは蔵書していた。ただ,この著書は,その標題からして「古代の出土物」を中心にした考古学専門の著作物と勝手に思い込み,手にすることを失念したままでいた。それが,金曜日の「多元のオンライン研究会」の場において,和田氏から「この本はお持ちじゃないですか」とのお尋ねがありました。「持っていない」旨返事すると,「それじゃ,一冊上げましょう」ということで頂いたものでした。

 

二,もともと「机上独学」を旨とし,専ら「文献史学」で古代史を読み解こうとしてきた私にとって,考古学中心の書物は,読み進むことさえ難渋するものであることを改めて実感させられるものでした。

 行きつ戻りつを繰り返しながら,基礎知識に乏しい私は,著書内容を追いかけるだけで,歎息・感嘆・消化不良の状態でいるのが現状です。

 そうした中,「考古学上の解釈・解説」ではなく,古田氏の「学究の徒」としての信条を表わす文言に強く惹かれました。そのまま引用します。

 

三,すべての学問は,仮説を必要とする。ことに日本の考古学のような,絶対年代から見はなされた境遇に生い育った場合,その必要性は絶大だ。それだけに,作業仮説の使用法についての次の基本方針がことに肝心なのである。それは次のようだ。

 〝一つの作業仮説に立って学問上の研究をすすめた結果,そこに大きな不合理,背理に突き当たったとき,研究者は旧来の研究成果にとらわれることなく,前提となった作業仮説を排棄しなければならぬ〟と。

 これに反し,〝その作業仮説に立ったとき,すべての関連減少,一連の徴証(文献等)がスムースな全体像を結晶するならば,その仮説は定理として承認される〟のである。

 わたしは以上を,学問における作業仮説の使用方法上の道理,基本方針と考える(同書五四~五五頁)。

 又,次のような文言も記述されています。

 わたしは,考古学者とそれ以外の人たちとを交え,意見の対立するもの同士がフランクに討論する場を設けて論議することが,問題の解決,学問の進展のために本当にプラスになるのではないかと,改めて痛感しています(同書一七〇頁)。

 

四,作業仮説の重要性を説き,対立する者同士のフランクな討論の必要性。作業仮説の背理・不合理に突き当たったときの排棄の重要性。――真摯に研究に取り組んだ先生の姿勢が凝縮されているように思われます。

 先生の多数の著書の中で度々引用されている本居宣長の言葉「師の説にな,なづみそ」もまた新たな作業仮説を生み出す原動力であったとも思われます。同時に後学の徒に対する激励であったのかも知れない。

 (いやしくも,師の説の大きな枠組みからの逸脱を許さず,自由な発想による仮説の提起を拒否し,そうした傾向の論文掲載を入り口で排除する,そうした会誌であってはならないはずです。とりわけ,公的大学における権威ある会誌においては,こうしたことが強く要請されるものと考えます。)

 

五,今回これを採りあげたのには,一つの理由があります。

対立する作業仮説で討論する際,討論は仮説の内容の範囲内で行われるべきことは当然のことです。仮説を提示した人物の人格内容にまで踏み込んではならないことです。即ち,対立する仮説の提示者に対し,〝そうした仮説を提示したこと自体を論難したり,誹謗したり,或いはそうした仮説の理解を得るための活動そのものを攻撃したりすること〟などが討論の枠外となることをわきまえるべきと考えます。一方でまた,作業仮説の背理・不合理を指摘された場合,それを「自己否定」とまで受け止めてはならないことです。仮説の否定が自己否定に直結すると,自己仮説に固執し,対立者の見解を理解しつつも受容できないという隘路に陥ることになりかねないからです。

こうしたことが,討論者の間で間々見受けられないとも限らないことを憂慮することが,今回本論で取り上げた理由だったのです。

多くの賛同を得られなかった仮説にこそ,対立を通じて「学問研究の深化」に大きく寄与したという反面事実があったことを忘れてはならないと思うのです。