「九州年号と九州王朝」論(一)

 

一.九州年号についての史書

 「日本書紀」には,「大化・白雉・朱鳥」三つの年号がみえる。ただ,「大化」が突然現れるにもかかわらず改元とされていたり,「白雉」と「朱鳥」の年号が不連続であったり,不審な点が多い。

 これに対し,古田武彦氏は「九州年号」の存在を認め,「九州王朝実在」の一根拠とした。

 ・鶴峯戊申は,自著「襲国偽僭考」の中で,「九州年号」の概念を提出した。

 ・継体天皇十六年。武王。年を建て。善記といふ。

 ・是九州王朝のはじめなり(古田武彦「失われた九州王朝」三三七頁)。

 

この後,「九州年号」についての研究が進み,それらを記録した多数の史料が明らかにされた。「二中歴」(平安末~鎌倉初期),「如是院年代記」(一六世紀後半),「帝王編年記」(一四世紀),「扶桑略記」(皇円著とも。一〇九四),「和漢年契」(高安蘆屋著。一七八九成立)「日本帝皇年代記」(薩摩入来院家文書。年代不詳),海東諸国紀」(申叔舟著。一四七一),「日本大文典」(ポルトガルの宣教師ジョアン・ロドリゲス著。一六〇四~一六〇八)などである。それらには多少の異同はあるが,「継体」(五一七)或は「善記」(五二二)に始まり,「大宝元年」直前の七〇〇年まで連続する年号が記されている。

 これらの年号は江戸時代の国学者鶴峯戊申(一七八八~一八五九)が,その著「襲国偽僭考」において,古写本「九州年号」から写したと述べているところから,一般に「九州年号」と呼ばれている。(同書:同頁)

 

二,「九州年号」と「倭国年号」の命名

 『この点,「九州年号」とは〝九州を都とした権力のもうけた年号〟の意であって,〝九州だけに用いられた年号〟の意ではない。この点からいえば,「倭国年号」の称が一段とふさわしいかもしれぬ。』とも言う(古田武彦「古代は輝いていた Ⅲ」五四頁)。

 

三,「白鳳」年号に見る不可思議な使用史料

(一)「日本書紀」には見えないが,前述のほとんどの「九州年号」資料に共通して見られるのが「白鳳」年号である。そしてそれは,六六一年から六八三年までの三二年間続いた年号として記されている。(なお,「続日本記」には一度だけ「白鳳」が年代を表わすものとして登場している)。

(二)ところが「白鳳」年号について,三二年間継続して続いたとは見られない用法の使用例が幾つもあることが古賀達也氏の論考によっても明らかにされている。

 『「九州年号」の研究』に所収された「盗まれた年号」の論考にそれは記されている。

 「後代史料などに見える白鳳が,その元年を天武元年壬申の年に改変されている例が少なからず存在することはよく知られている」(同書八四頁)。その一例として,江戸時代に博多湾岸から出土した「白鳳壬申」と記された骨蔵器に関する文献について,次のように言う。

 『筑前国続風土記附録』には「白鳳壬申」とあったものが,『筑前国続風土記拾遺』では「附録」からの引用と記していながら「白鳳元壬申」と「元」の一字が付け加えられている。これは,白鳳年号を天武の年号と理解し,「壬申」はその元年に当るとした『筑前国続風土記拾遺』編者による改変の例である(同書八五頁)。

 また,「高良記」(久留米市高良大社)には「天武天皇四十代白鳳二年」と記す部分と,「白鳳十三年,天武天皇即位二年癸酉」とする二例が混在している,との例を紹介している(同書八六頁)。

 こうした例について古賀氏は,「白鳳」年間が長かったことから,「白鳳○○年を,天武即位後の○○年に改変したもの」と解説している。

 しかし,この見解が成立するためには,長かったからというだけでは根拠薄弱と言わざるを得ない。第一に,「九州年号」による年代を「近畿天皇家の天皇の即位年」による年代に置き換えるのであれば,新天皇即位にかかわらず明確な改元が行われなかったことの説明が必要となろう。第二に,明確な改元が行われなかったにもかかわらず,古賀氏自ら述べているように『筑前国続風土記拾遺』の編著者は「白鳳年号を天武の年号と理解していた」と見られる実態があったことである。「年号制定理論」との乖離である。

 本来,六六一年に「白雉」から改元して「白鳳」となった年号は,天智の即位に伴い一度断絶し,新年号に変わったはずである。それが天武の時代に改めて「白鳳」として用い直されたと考えざるを得ないのである。異例かつ極めて変則的な用法である。

 

四,天武天皇と元号

(一)六七一年「壬申の乱」に勝利して即位した天武天皇は,何故明確な自前の年号を制定しなかったのか。ここに大きな謎がある。

 天武が戦った相手は「大友皇子」である。この「大友皇子」は「書紀」では天皇として位置づけられていない。しかるに,明治三年,時の明治政府は「大友皇子」の即位を認め,

「弘文天皇」との天皇名を追諡した。即ち,「近江朝」は天智七年(六六七)の中大兄皇子の即位後,天智十年の崩御後「弘文天皇」の二代に亘ったものと見做されたのである。

 これの意味するところは何か。それは列島を代表する王朝が,それまでの「九州王朝」から「近畿天皇家」の支配者に代わって,新王朝が誕生したことを意味することに他ならない。当然のことながら,「天智天皇」は新王朝としての元号を制定したはずである。そして,没後その地位を後継した「弘文天皇」は改元した,と考えるべきものである。

 

(二)天武の即位は,「近江朝」の後継だったのか。それとも簒奪だったのか。

 後継であれば,当然「弘文天皇」の元号の改号が行われなければならない。しかし,簒奪であれば,改元ではなく新王朝の開設に伴う「建元」でなければならない。

 「書紀」の記述をみると,「弘文天皇」を省いて,「天智天皇」の地位を引き継いだような書き振りで,「後継」なのか「簒奪」なのか,明らかにされていない。天武は,その実態を明確にされることを望まなかったように思われる。

 これが,天武の「元号」に反映されている,考えられる。

 

(三)天武は,戦いによって「弘文天皇」を省いたため,その元号を改元することはできなかった。かといって,「天智天皇」の後継者としての改元も行える立場にもなかった。しかし,新たな王朝としての「建元」を行えば,それは王朝「簒奪」を自ら公言することになる。では,元号に触れずにいられたかと言えば,それでは「弘文天皇」の定めた年号がいつまでも使われることとなる。

 「改元」もできず「建元」もできず,かといって「弘文天皇」の定めた年号もそのまま使うことも認められない。こうした追い込まれた状態で天武の採った策。それが,「近江朝」以前の年号「白鳳」の復活ではなかったかと考えられるのである。「天智・弘文」による「近江朝」を中抜きして,あたかも「斉明朝」を引き継いだかのように装った「元号」の引継ぎである。

 

五,「天武白鳳○年」と記述のある出土物の実体

 これこそが,「白鳳」年号の改元時点の二重性を証言するものなのである。即ち,六六一年の当初の改元の時期に対し,天武によって復活した「白鳳」年号の起算点が天武時代に再出発しているのである。

 しかし,これは時間軸を表わす「元号」の性格からして,徒に混乱を引き起こすこととなる。ために,「天武白鳳○年」という表記は,多くの時間を要する以前に,「使用控え」になったのではないか,と思われる。その意味で「天武の白鳳年号」は再び当初の「白鳳年号」にすり替わって使用されていったものであると考える。

 年号理論からは説明できない実態が,「天武白鳳○年」という後代史料によって証言されているのである。

 

六,むすび

①「白鳳」年号は,「九州王朝の斉明天皇」によって六六一年に「白雉」から改元されたものである。

②天智による「近江朝」の成立により,「白鳳」は消滅し,新たな年号が建元された。ただし,具体の年号名は不明。

③大友皇子=弘文天皇により,改元された。ただし,具体の年号名は不明。

④「壬申の乱」を経て即位した天武は,「建元」も「改元」もできず,かといって「弘文天皇」の元号を継続させることもできなかった。それによって「斉明朝の白鳳」年号を復活させた。

⑤だが,それは六六一年起算と六七一年起算の二重性をもたらすことで,混乱を招いたため,早期に再度「白鳳」表記一本に控えさせられた。

⑥従って,「白鳳」年号は「九州王朝」の年号として出発しながら,六七一以降は天武によって「近畿天皇家」の年号と変化したのである。極めて異例の二重性を持った年号と言えよう。

⑦ただし,天武の復活させた「白鳳」年号は,その使用に混乱を招くのみとなり,六六一年から引き続く「年号」へと使用実態も変化させられていったものである。

 

七,付言

なお前述二,に古田氏の見解を記したが,「九州年号」とは〝九州を都とした権力のもうけた年号〟である。天智天皇の即位を以てその権力は「近江朝」に移り,その後近畿の「天武・持統」と引き継がれた。それ故その間の年号は,九州権力の年号ではなく,「近畿天皇家」の定めた年号であったと考える。天武・持統の改元と「日本書紀」の記述の問題については,稿を改め(二)で論ずることとする。