「倭国・俀国・竹斯国」について

     ―――『竹斯国』とは,『俀国』とは―――

 

一,「竹斯国」と「俀国」とは,「隋書」俀国伝にのみ出てくる国名である。それが意味するところは何なのか。それを探る上で,まず,「俀国伝」から見てみよう。

 

二,「隋書」俀国伝の記事

 大業四年(六〇八)煬帝は文林郎裴世清を使者として俀国に派遣した。裴世清はまず百済に渡り,竹島に至った。南方にタン羅国を遠望しながら,遥かな大海の中にある都斯麻国に至り,そこからまた東に航海して一支国に着き,さらに竹斯国に至り,また東に行って秦王国に着いた。・・・中略・・・また,十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな俀国に附庸する。

 倭王は,・・・中略・・・隋使裴世清を迎えさせた。十日後また都の郊外まで出迎えさせた。俀国の都に到着すると,俀王は裴世清と会見して大いに喜んだ。

 

三,「竹斯国」の意味とその位置

(一)古田武彦氏の見解(失われた九州王朝 二六三頁)

 『右の道順を図示しよう。

 百済→竹島→(南望,タン羅国)→都斯麻国→大海→(東)一支国→竹斯国→(東)秦王国→十余国→海岸

 竹斯国(筑紫国)より東へ,秦王国と十余国を経て「海岸」に達するという。だから,この「海岸」が九州の東岸(北部)であることは疑えない。そして「竹斯国より以東」といっているのは,右の「九州の東岸(北部)」までのことだ。だから,ここでは結局〝九州内部〟しか描かれていないのだ。すなわち,倭王の都は「竹斯国」に位置している。――それが右の道行き記事によって導かれる率直な結論である』。

(二)これを読む限り,氏は「竹斯国」を「筑紫国」とし,それは北部九州の「筑紫」との前提に立っている。多元論者は,氏と同様の立場から行路行程を論じており,古田氏の見解を特段問題視していないようである。

 

四,「竹斯国」は「俀国」ではない――「古田見解」への疑問

 先の「古田見解」において,『俀王の都は「竹斯国」に位置している』とするのが率直な結論である,としているが,同意できない。むしろ別国であると考える。以下に根拠を述べよう。

第一,行路記事において「竹斯国」は「俀国」であるとの表記はどこにもみあたらない。

第二,むしろ,俀国に至るための経過国の一つとして記述されている。

第三,「竹斯国より以東」といっているのは,九州内部しか描かれていないことから「九州東岸(北部)のことだ」としている。しかし,宗主国たる「俀国」を除いて東に十余国を収めることは到底不可能である。矢張り,瀬戸内海を視野に入れなければ,この文言を理解することはできない。

第四,「竹斯国」が「俀国」だとすれば,裴世清は俀国からの迎えが来る前,先に「俀国」入りしたことになってしまう。「裴清」の目的地は「俀国」であるから,そこで行程は終了となるはずである。

第五,だが,「竹斯国」から「秦王国」,「十余国」と行程は更に続いて,その後最終目的地たる「俀国」の海岸に到達しているのである。

第六,ここで重要なのは,「俀国伝」における「至・望・経・達」という用語の重要な使い分けである。「至」とは,途中経過国に立ち寄った場合の表記,「望」は船上などから遠く眺める場合の表記,「経」は途中立ち寄ることなく通過する場合の表記,そして最終目的地に淘汰した場合に初めて「達」の表記になっている。極めて厳密に使い分けているのである。その中で,「竹斯国」は「至」の表記から途中経過国の一つに過ぎないのである。

第七,また,『「竹斯国」から東の諸国はみな「俀国」に附庸する』という書き振りは,「竹斯国」と「俀国」を明確に書き分けており,両国を同一国とは見ていないことを意味している。

 

五,「竹斯国」と「俀国」が別国とした時の両国の位置関係

(一)「磐井の乱」と「糟屋の屯倉」

ここで想起しなければならない事柄がある。それは,「磐井の乱」の際に物部麁鹿火へ葛子が与えたとされた「糟屋の屯倉」である。(既に拙論:「継体紀論」で詳述したように),「磐井の乱」とは,北部九州を支配した「九州王朝の継体天皇」に対し,その息子「葛子」がクーデターを起こし父を討った事件であったと解した。その際,物部麁鹿火が協力した恩賞として葛子より「糟屋の屯倉」を賜ったものとした。その内容は,徴税権を含む糟屋一体の支配権を物部麁鹿火に分割・譲与したというものであった。

この時点で北部九州は,九州王朝の支配する領域と,小さいながらも物部氏の支配する領域に分割されたのである。

 この時,物部麁鹿火が支配した領域を考えるにあったって注意しなければならない点がある。それは,宣化紀に見られる那津の口(ほとり)にある官家の問題である。「書紀」には,この官家を修造して,国内の非常用と海外の賓客用に河内国の茨田の屯倉等から穀を運ばせた,との記述がある。そこでは更に,物部大連麁鹿火は新家連を遣わせて新家屯倉の穀を運ばせたともある。

これから窺えることは,糟屋と博多湾岸の那津は極めて近い距離にありながらも,那津は麁鹿火の支配領域には入っていなかったということである。何故なら,九州王朝の支配下の地域にあるからこそ,そこの那津の官家へ穀を運ばせることができたのである。その意味では,同じ博多湾に面しながらも,那津は麁鹿火が割譲された領域には入っていないといえる。従って,麁鹿火の支配領域は,現在の粕屋郡を中心とし,多々良川以北と想定され,博多湾では最も奥まった地域と考えられる。(但し,その支配領域の全体範囲については,必ずしも明確ではない。ただ,糟屋郡の東側にある屯倉の領域までには及ばない。)

(二)その後,この物部氏の支配した領域がどのようになったかについて語る史料はない。しかし,(既に拙論:「物部・蘇我の抗争」論で述べたように),麁鹿火没後,物部大連の地位を得た尾輿・守屋と受け継がれたものと考えられる。しかし,物部・蘇我の抗争により守屋が敗れ,「糟屋の屯倉」は九州王朝に奪還されてしまったのである。

 この,奪還した物部領地こそが「竹斯国」であったのではないかと考える。即ち,葛子より割譲を受けた糟屋地域一帯を,「竹斯国」として物部麁鹿火以下物部氏が支配してきたのではなかったか,と考えられるのである。

 遠賀川流域に物部を冠した地名が多いことも,その地における物部氏支配の痕跡を今に伝えるものではないだろうか。

 

六,「竹斯国」の支配形態

 九州王朝は,物部氏の支配した領域,即ち「竹斯国」を,直ちに自己直轄の支配領域とはしなかったのではないか。即ち,物部氏の支配した領域=「竹斯国」は,物部氏失脚後は支配豪族不在の状況となった訳である。それは同地域における豪族の不在を意味し「国造」を置くことが出来ない状況でもあることを意味する。その結果,その支配ポストに九州王朝配下の人物を送り込む形(官撰の形態)がとられたのではないだろうか。そのポスト名こそ,「国宰」ではなかったか,と考えるものである。

 六〇八年,「隋」の「文林郎裴清」が「俀王」に謁見した際には,「竹斯国」は未だ「俀国」には吸収されておらず,形のうえでは一応独立した一国としての形をとっていたものと考えられる。

 なお,更に一歩踏み込めば,「俀国」が「筑後」から「太宰府の地」へ遷都する際に,官撰者による支配を止め,吸収していったものと考えられる。

 

      ―――『倭国』とは『俀国』とは―――

 

一,「隋書」における「倭」と「俀国」の表記と二つの見解

 「隋書」では,「帝紀」と「列伝」で微妙に「倭国」と「俀国」とを書き分けている。即ち,「帝紀」では,「倭」と表記しているにもかかわらず,「列伝」では,「俀」や「俀国」の表記となっている。

 これについて従来は,「俀」は「倭」の誤りとの解釈が定説となっていた。しかし,この解釈について古田氏が真っ向から異を唱えた。氏は,その著書「失われた九州王朝」において,「倭」は「近畿天皇家」,「俀」は「九州王朝」を指すとし(二六三頁以下),更に,「古代は沈黙せず」(二〇九頁以下)でも繰り返し論じている。その論拠について,次のように言う。

①「俀」は「倭」の誤りではなく,別字である。

②大業四年に裴清が「俀国」から帰国した後,「隋書」は「此後遂絶」としているが,大業六年「倭国」が方物を貢献したとあるところから,「俀国」と「倭国」は別国と考えなければならない。

 

二,古田説に対する野田利郎氏の批判

前記「古田説」について,野田利郎氏が多元№一六四に「『隋書』の俀と倭」なる論考を寄せ,千歳竜彦氏や谷本茂氏等の見解を踏まえつつ,「俀」と「倭」は同一とする見解を述べられている。

その趣旨は,前記一,②の「裴清」の帰国時期と方物貢献の時期の不一致を「俀国」と「倭国」を別国とみる根拠とすることへの疑問である。

(一)野田氏は次のように述べ,「大業四年帰国説」を否定する。

①「隋書」の記す裴清の「俀国」への派遣については「明年」として「大業四年」であることを示しているが,その帰国時期については何ら触れるところがない。

②千歳氏は,裴清の帰国と「大業六年春正月の遣使」を同一事件としたが,野田氏もそれに同意する。

③「此後遂絶」とは「大業六年春正月」以降のこととして,もともと何らの矛盾もなかった,として,この点も千歳氏の見解に同意した。

(二)古田氏が裴清の帰国時期を「大業四年」とした論拠の一つを「日本書紀」の推古紀における「推古十六年の裴世清一行」の記事においている。しかし,そもそもこの記事が「推古十六年」のものであるかについては,古田氏自身も疑問を呈し「十年以上のづれ」を指摘している点からも,「書紀」の記述に基づいて「隋書」を論ずることは問題が多いと言わざるを得ない。野田氏の主張は正にこの点を突いたものである。

 「書紀」の記述を除いて,純粋に「隋書」を読めば,野田氏等の主張どおり「裴清」の帰国と「大業六年春正月」の遣使事件は同一と見るのが妥当だと考える。

 

三,「大業四年三月遣使」について

 裴清の帰国時期について「大業六年」とすることで見解の一致をみた千歳氏と野田氏の間で,大業四年の遣使記事については見解が分かれている。

千歳氏は,大業三年の翌年の大業四年にも俀国から遣使があったと仮定し,それが帝紀記載の大業四年の朝貢記事に照応する,とした。

これに対し,野田氏は次のように異を唱えた。

①百済や高句麗と異なり,俀国が大業三・四年と連続朝貢したとは思えない。

②大業三年の遣使がそのまま隋にとどまり,翌年の三月に百済他の二ヶ国と共に方物を貢献したと考えられる。

③こう考えると,帝紀に記された大業四年三月の朝貢記事を無理なく理解することができる。

 その上で,「帝紀(大業四年三月)の共同朝貢のあと百済,倭国は一緒に裴世清を俀国へと案内したのではないだろうか。」とした。更に,「大業四年の共同朝貢で方物を貢献するため,大業三年の朝貢では方物の貢献を行わなかったと思われる。」とした。

 このような検討結果から,氏は結びに「おわりに」として次のように締めくくっている。

 「以上から,俀国伝の(帰途)と帝紀の(大業四年三月),(大業六年正月)を矛盾なく説明できたと考える。つまり,俀国と倭国とは同じ国であるが,『隋書』の東夷伝・音楽志は,故あって倭国を俀国と記載したと考える。」

 

四,「大業三年の派遣」と「大業四年の朝貢」との関連

「大業三年俀国が派遣した使者がそのまま隋にとどまり,翌四年三月百済等と共に朝貢した。その後,裴清を俀国に案内した。この裴清の帰国に伴い,大業六年正月に改めて倭国は隋に朝貢した。」とする野田氏の見解について,全く同感であり,肯認するものである。その上で,氏と見解を異にする部分について述べておきたい。

①氏は,「大業三年の朝貢では方物の貢献は行わなかったと思われる」としているが,「朝」は朝廷の朝礼に出席することであり,「貢」は手みやげを持っていくことと解されており(岡田英弘「日本史の誕生」一七四頁),方物を貢献しない場合は「朝貢」にあたらない,とすべきものであろう。大業三年に派遣したものの,「朝貢」は年を越えた翌四年三月になって初めて行われたものと解すれば足りると考えられる。ただこの点は,「倭国」と「俀国」を論ずる際には,余り大きな意味を持たない。

②氏は,「朝貢」に関する検証を行った最後に,いきなり「つまり俀国と倭国は同一国」だとし,「故あって『隋書』は倭国を俀国と記載した」としたが,肝心の「故あって」の説明がない。

 即ち,古田武彦が『「俀国」は「倭国」とはあくまで別の表記としてそれぞれ別存していること,この明白な事実が再確認されよう』(「古代は沈黙せず」二一七頁)との主張に対しては説明が尽くされていないと考えられる。

 

五,「倭」と「俀」が別表記されていることに意味はないのか?

(一)中国の史書が「倭」とか「倭国」とか表記している時,それがどこを指しているのか,ということが問題の出発点である。なお,以下に記す中国の各史書の訳文は,藤堂明保他編著の「倭国伝」(講談社学術文庫)による。

①『後漢書』に「倭」についての記述がある。そこでは,「倭は,・・・中略・・・凡そ百余国あり。前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼした後,漢に通訳と使者を派遣してきたのはそのうち三十国ほどである。それらの国の首長は,それぞれ王を名乗り,王は世襲制である。」と記されている。

ここでの「倭」は,特定の一国を指すのではなく,冒頭に記された百国余の全体を指している。換言すれば,この「倭」は,日本列島内の百国余の総体を指している。そのうちの三十国ほどが使者を派遣してきたと言っている。その上で更に,「桓帝・霊帝の頃(一四六~一八九年)に倭国の国内は混乱し,各国が互いに攻め合って,何年もの間統一した君主がいなかった。・・・中略・・・互いに戦っていた倭国の人々は,ともに卑弥呼を立てて王とした。」として,「倭国」の全体の特徴的状況を述べている。

 即ち,百余国の中の特定の一国ではなく,混乱した複数国の状況を示して「倭国」の実状を述べたものと理解することができる。正に,中国側から見て日本列島内の中枢部全体は混乱の最中にあり,その後王の共立により安定したとの当時の状況が記されていると考えられる。こうした点からも「倭国」とは,中国側から見た時の「倭人」の住む地域全体を指していると捉えることができる。

 

②『三国志』「魏志倭人伝」における「倭人」では,前半で「倭」と「倭人」の状況・特徴を記している。そこには「倭国」の文字はなく,邪馬壹国を始めとして多くの国々が列記されている。そして「親魏倭王卑弥呼」への詔が出てくるが,女王国のトップ卑弥呼を「倭人」の構成する諸国のトップと中国側(魏)が見做したことを意味している。ここでも「女王国」を「倭国」とは見做していない。

何故なら,「女王国」が「倭国」であれば,共立している「女王国」以外の他の国々や,共立以外にも広がる他の諸国等,列島内にある多くの国々を「倭国」ではないとせざるを得ないからである。そうした国名を中国史書に見ることはない。「女王国」のトップが倭人の住む地域の多数の国々,いわゆる「倭国」そのもののトップである,とするのが中国側の認識である。結果,ここでも「倭国」は単に中枢的一国を指すのではなく,「倭人」の構成する国々をひっくるめて総称的に使われていることが分かる。

 

③「宋書」においては,「倭国は高(句)驪の東南海中に在り,世貢職を修む」ということしか記述していない。ただ,冒頭「倭讃」としか表記されていないものが,次の「珍」が「倭国王」を称して「宋」に除正を求め許されている。その後「倭国王」は「済・興・武」と引き継がれる。この「武」の時に差し出された上表文には「先祖以来東西一二一ヶ国,海を渡って九五ヶ国を征服した」との文言が記されていた。

 このようなことを前提に「武」の威力が認められ,「倭王に除す」とされた。

 「珍・済・興」については,彼らが自称した「倭国王」をそのまま承認して除している。しかし,「武」について見ると「倭国王」と自称しての進号の記述はない。「宋」の詔によって「倭王」(「倭国王」ではない)に除されている。中国側から主体的に日本列島を見た時には矢張り「倭国」というのは列島内の一国ではなく,「武」の支配に漏れた「倭人の国々」を含めた総体としての意識がそこにはあった,と見ることができる。

④以上が,「隋書」以前の中国史書に見る・「倭」「倭国」に対する中国側の認識による用法である。(但し,「旧唐書」以降においては「日本国」の登場により「倭国」の意味が変容させられている。後述する。)

 

(二)前述のような中国史書の基本的認識による用法に基づいて,改めて『隋書』の帝紀の「倭」と「俀国伝」とを見比べると,その持つ意味の違いが明白となる。即ち,「俀国」は倭人の構成する国々の中の一国を指す「国名」であるが,「倭」はその「俀国」を含む複数国の総体を示す名称なのである。

 この点,古田氏が「倭」と「俀」は表記の上でも別であり,それぞれは別存する,と言ったのは,その部分では正しいと言える。しかし,そこから飛んで「倭」は「近畿天皇家」を指すとしたのは承認しがたい。

 古田氏の解釈の根底には,大業六年正月の朝貢記事は,「俀国」と「隋」の交流は大業四年を以て途絶えた,それ故,大業六年に九州王朝が朝貢することはない,との解釈がある。

しかし既に論じた通り大業六年正月は,裴清の帰国に伴って「俀国」からの使者が改めて朝貢したものであり,「近畿天皇家」独自の外交ではなかったのである。

 では何故帝紀は「俀国」とせず「倭」としたのか。野田氏は「故あって」とするが,肝心の「故」の説明はなく,「倭」も「俀」も一緒だとする。

しかし,これまで述べてきたように「倭国」は「倭人の構成する国々の総体」であり「俀国伝」は「倭国」の中の一国についての状況を記したものである。

一方,本紀では朝貢国は「俀国」ではなく「倭」である。ここからは三つのことが想定される。

一つは,単に「俀国」からの朝貢と受け止めれば,朝貢相手国は小さくなる。一方,「俀国」からであってもそれが「倭国」を代表する国であるから,それを以て「倭国」全体からの朝貢と捉え,そう記すことによって「隋」の強国としての対面が保たれる,との意向を表現したものと理解することである。

 もう一つは,「俀国」からの使者は沙門を数十人連れて「隋」を訪れている。これ等の内に「俀国」以外の人物が含まれていなかったかどうか。仮に「俀国」以外の沙門がいたとすれば,その国からの土産もあったろう。そうした場合は,「朝貢国」は「俀国」にとどまらず,「倭国」と表記するに値したであろう。

 また三つは,「倭国」内からの「朝貢」については,そのうちのどの国と特定せずにすべて「倭国」からとの表記がこれまでの中国史書の伝統であったものに倣った,との考え方である。

だが,それ等三つの想定について,そのいづれとも断ずることはできないが,少なくともそれらの内のいづれかではないかと考えるものである。

なお,「俀国伝」は,「倭国」の全体状況ではなく,「倭国」内の一国である「俀国」の状況に限って記したものである。

 

六,「倭国」は「近畿天皇家」を指すものでもなければ「九州王朝」を指すものでもない

古田氏の「倭と俀」は別との指摘は首肯できるが,「倭」は「近畿天皇家」,「俀」は「九州王朝」との見解には同意できない。

また,野田氏の「倭=俀」との指摘にも同意できない。繰り返しになるが,「倭国」とは中国側から見て「倭人」の構成する国々の総称であり,「俀国」はどこまでもその中の一国なのである。

 仮に,野田氏の主張のように「倭=俀」との見解に立つならば,一元史観論者が通常的に行っている「俀国伝」やその中にある「俀」の文字を全て「倭」に書き換えることについて,何らの異論も生じないということになろう。一元史観論者は「俀」は「倭」の誤りと見做してその多くの著書等において「俀」を「倭」に改めて著述している。「倭=俀」との見解に立つならば,この改変を結果として受容せざるを得ないのではないだろうか。

多元論に立ち,「九州王朝」の実在を認める立場からは到底看過し得ない重大な問題となろう。「俀を倭に書き改めること」,それは古田氏が何度も注意喚起している,「自己の説に引き込んだ史料の改変は慎むべき」との理念にも相反する結果を招来することとなることを言い添えておきたい。

 そしてもう一つ,野田氏の他の論稿⦅『隋書』の「水陸三千里」について⦆(「古田史学会報」№一六八)である。ここで,『俀国伝の「水陸三千里」について』の見解を述べている。氏は,これまで「日本列島の本州から九州までの距離」とし,「俀国はその全体を含む」との見解を示していたが,谷本茂氏の批評を受け,次のように訂正された。

 「俀国は百済・新羅の東南にあって,大海の中に水陸三千里にわたる山島の列島に居る」としたものである。

 だが,これは「水陸三千里にわたる山島」を「倭国」とし,その内に「俀国」がある,と言うことを言っているのではないだろうか。何故なら,水陸三千里にわたって「俀国」があったのではなく,多元史観の立場に立っても「俀国」の直接支配エリアは北部九州内に限定されるからである。(「俀国伝」では,俀国の東に,俀国ではない十余国の附庸国があるとも言っている。)

 即ちそれは,「倭国」の中に「俀国」がある,ということを野田氏自ら主張しているということにならざるを得ないのである。「倭国」と「俀国」は「イコールではなく包含関係」ということになり,前述したような「倭=俀」と言う関係を自ら否定することとなっているのである。

 

七,「舊唐書」における「倭国」はどう読むべきか

(一)「舊唐書」には「倭国」と「日本国」とが分けて記述されている。その中でまず「倭国伝」において次のような記述がある。

「倭国は古の奴国也」と記し,更に「東西五ヵ月の行,南北三ヵ月の行」であり,「四面の小島五十余国は皆附属す」。

 これは,「隋書」以前に記されている「倭国」とは異なった「倭国」の表現である。何故なら,それまでの「倭国」は,日本列島内の一つの国を指して「倭国」としていたものではないのに対し,この「舊唐書」においてはじめて「倭国=古き倭奴国」との表現とされたものだからである。そして,この表現の変更は,次の「日本国伝」の記述を行うための前提として変更されたものである。

 

(二)「日本伝」における「倭国」

 「日本伝」には,未だ定説を見ない不可解とされる記述がある。

ⅰ日本国は,倭国の別種である。

ⅱその国は日の出る所に近いので日本をもって国名にしている。

ⅲ或は,倭国が自ら「倭」の名が雅やかでないのを嫌って,改めて日本としたという。

ⅳ或は,日本はもと小国であったが倭国の地を併合したのだという。

 

①ⅰの「別種」とは,何を意味しているのか。

 古くは「後漢書」に「倭種」なる文字が出ている。「(拘奴国)皆,倭種なりと雖も,女王に属せず」と記している。そこでは,「女王国」を含む「倭国」全体には含まれていないが,「倭国」の人々と同じ種族乃至は民族だと言っている(但し,講談社「倭国伝」の注では「倭人の仲間」としている)。

 本来的な意味からすれば,「九州王朝」も「近畿天皇家」も,すべて倭人の構成する国々であるとの中国側の認識からすれば,いづれも「倭種」であることに変わりはない。

 しかし,「日本国」という新たな国が出現し,かつⅳのように「日本国」と「倭国」の併合を表記しようとする場合,同じ「倭種」では表現できない。種族乃至民族が同一であっても「国」が別であることを示す必要が生ずるのである。このため,「舊唐書」の編纂者は従来と異なった手法をとった。それが「倭国=古い倭奴国」として従来の「倭国」ではなく,宗主国たる一つの国を「倭国」とした。同時に「後漢書」にいう「倭種」とは異なって国の違いを指す意味で「別種」という用語を用いることとした。これらは,それまでの中国史書でつかわれてきた「倭国」や「種」の使用方法から逸脱した用法であった。

 だが,これによって初めてそれまでの宗主国たる「倭国」と,同じ「倭人」でありながら「別国」である「日本国」を表現できたのである。

 

②こうした前提に立っても,なお不可解な「舊唐書」の文章

 ア,ⅱ・ⅲを除いてⅰ・ⅳを読むと次のようになる。

 「日本国は,倭国の別種であって,もともと小国であったが,倭国の地を併合した。」

 続いてⅲをこれに重ねると,「倭国が自ら国名を改めて日本とした」というのであるから,

 『日本国は,「国名を日本と改めた国」の別種であって,もともと小国であったが,「国名を日本と改めた国」の地を併合した』ということになる。

 これにⅱを重ねると「国名を改めた理由は,倭の文字を嫌ったため,との理由である。」

 

イ,だが,この記述は変である。「倭国」が「日本」と国名を改めるのは,「日本国」に併合される以前でなければならない。何故なら,併合されてしまえば,独立した国ではなくなるので,国名そのものが無くなる。それ故,国名の変更などということは有り得なくなる。従って,併合される以前に「日本」という国名に変更されていなければならないというのが論理的必然である。

 このように考えると,「日本国」は,「日本」と改名された国を併合したことになる,というのが「舊唐書」の記述内容ということにならざるを得ないのである。換言すると,「日本」が「日本」を併合したということなのだろうか。前述した「変である」としたのは,このことである。

 

③「舊唐書」は何を記述しようとしたのか 

 ア,第一に言えることは,「併合」という表現から見て,日本列島内に二つの国があった,ということを前提としている。これは,一元史観論とは全く相容れない見解である。

イ,第二に,その国とは「日本国」と改名以前であれば「倭国=古い倭奴国」である。

 ウ,簡単に言えば,「かつて小国であった日本国が大国であった倭国を併合した」と言えば事足りるだけのことでしかなかったのである。では,何故前述のような変な,不思議な書き方をしているのだろうか。

 エ,これには,「九州王朝の歴史的存在」を書き記さなければ,二つの国の併合の事実を正面から書くことができない,というジレンマがあったためである。即ち,「九州王朝の歴史的存在」を知りながら,敢て直接明記することを回避した表現の工夫が必要とされたのである。それこそが,不可解とされる表記の真相なのである。

 

④「舊唐書」の本来的な読み

ア,では,「倭国」の中に,それまでの宗主国としての「俀国」があった。しかし白村江の戦いの敗戦を契機として,「俀国」は小国「近畿天皇家」によって併合された。それによって,「俀国」の直接・間接の支配領域を受け継ぎ日本列島の代表国となった。当時の唐の人々はこれを十分熟知していた。こうした前提に立って「舊唐書」の編者の工夫を読むならば,①に掲げたⅰ~ⅳは次のように読むこととなろう。

 ⅰ日本(ヤマト)国は倭国(古い倭奴国)の別種である。

 ⅱその国(倭国=倭人の構成する国々の総称)は日の出る所に近いので日本(ひのもと)をもって国名にしている。

 ⅲ或は,倭国(倭人の構成する国々の総称)が自ら「倭」の名が雅やかでないのを嫌って,改めて日本(ひのもと)としたという。

 ⅳ或は,日本(ヤマト)はもと小国であったが,倭国(倭人の構成する国々の総称)の地を併合したのだという。

 

 イ,ここで重要なのは,次の二点である。

  第一は,ⅰとⅳの「日本」は「ヤマト」と訓じ,ⅱとⅲの「日本」は「ひのもと」と訓じ,前者は「近畿天皇家」を意味し,後者は「九州王朝」を宗主国とする列島全体を指す「倭国」を意味することである。

  第二は,ⅰの「倭国」は,「俀国伝」の「倭国=古い倭奴国」の記述を受けて,ここのみⅱ以下の「倭国」とは異なっているということである。

 

八,本稿は,令和六年四月十四日(日)「多元の会リモート研究会」において発表したものである。当ブログにおいては,「『竹斯国』と『俀国』」考(令和三年一月三日掲載),「『隋書』に見る倭国と俀国について」(令和四年三月四日掲載),「『舊・新唐書』における倭国」について(令和五年三月三日)を各々掲載してきたが,発表ため簡略化して一本化したものである。