「船王後墓誌」考・(続)に関する疑問に答える

 

一,当ブログに掲載した「船王後墓誌」についての論考に対し,質問メールを頂いた。

 その論旨は,「阿須迦天皇末歳次辛丑」と記してある「墓誌」の「末」の文字をどのように解するのか,という一点にあった。

 

二,これについて,次のように返信したところである。以下そのまま転載する。

 

 小生は,次のように考えます。

①この時期,「天皇」号を称した王朝は,唯一「九州王朝」以外にはない。

 

②古田・古賀氏の主張するような「天皇」号を,他王朝を含め複数の人物が使用できる称号ではない。その意味で,それまでに用いられている「大王」や「王」の称号とは異なる。

 

③拙論:「継体紀」論で私見を述べましたが,「天皇」号は,南朝の冊封体制から離れ,自立の道を選んだ「磐井=継体朝」において自ら定めた,その意味で「九州王朝」の支配者独自の称号である。

(ただ,二重年号の存在は,二人の重層的支配構造を示しているものとも思われ,その時は,「天皇」ともう一人別の称号をもった支配者を想定しなければならない,と考えています。)

 

④「多利思北孤」が初めて「天子」を自称して以来,

(古田氏をはじめ多元史観論者の多くの人達が,「多利思北孤」以前にも「天子・天皇」を並べて記述していますが,「多利思北孤」以前に日本列島内に「天子」が自称されていた,との史・資料を見出すことはできません)

それまでの「天皇」号を「弟」か「利歌弥多弗利」に譲ったものと考えています。

(「隋」の「煬帝」に「義理なし」と咎められた,いわゆる「兄弟統治」における称号の分割という仮説です。ただ,この「煬帝」の指摘に従って,二重統治は止め,二重年号の廃止にみられるように「天皇」号は再び「天子・天皇」に一本化されたものと考えます。)

 

⑤この「天子・天皇」が再び分離するのは「斉明天皇」の時です。「利歌弥多弗利」没後,後を継いだのが「中皇命」とするのが小生の見解ですが,この「中皇命」が六五二年狩りの途次不慮の事故で亡くなります。後継となるべき「明日香皇子」は未だ幼く,中継ぎとして后たる「斉明」が二年の空白期間をおいて即位したものと考えます。その際,本来「天子・天皇」たるべき地位を継ぐのは息子たる「明日香皇子」との考えから,「天皇」の称号のみを自称したものと考えます。

 

⑥こうした前提で当該墓誌を見た時,そこに記されている「天皇」は「九州王朝」の人物以外にはない。では,氏ご指摘の「末」をどのように読み・解釈するのか。

 

⑦小生は,次のように考えます。

「船王氏」は,「・・・世に生まれ」「・・・朝に奉仕し」「・・・末に没した」という一連の流れの中で使われた用語ではないか。

 

⑧「末」の一字のみを捉えると,貴氏の主張に一理あると思います。

ただ,残りの二人の「天皇」の比定や,「近畿天皇家」が何時から「天皇」号を使用したのかなどの問題を含めて考えると,矢張り「近畿天皇家」の人物と見ることの方が問題が多いと考えています。

ただし,小生の見解も,かなりの仮説に基づいているものでもあり,なお今後の検討課題を含んでいることは十分承知しているつもりです。

 

三,追記

(一)「日本書紀」は「継体紀」の分注に,「百済本記」を引いて「日本天皇及び太子・皇子,俱に崩薨」と記す。

 

 通説は不可解等といって,この文章を無視している。しかし,拙論「継体紀」論考で史実であると論じてきた。そこでは,同時に中国南朝の冊封から離れ,自立の道を歩むこととなった「九州王朝」が,「日本(ひのもと)」を国名とし,支配者自らは「天皇」の称号を自称することで権威付けを図った,とした。

 分注に見る「日本天皇」の文字は,こうした当時の状況を「百済」側からみて記されたものである。

 分注を無視する見解からは,「百済本記」が失われて無いことなどを理由に,その信憑性を疑う見解が専らである。

 しかし,「日本書紀」は七二〇年の成立である。その当時,編纂者においては「百済本記」の存在を知り,のみならずその内容までも知っていたのである。それ故にこそ,「百済本記」を引いて本文までもそれに合わせたと注書きしているのである。編者にしてみれば敢て「百済本記」などに触れることなどせずに,継体崩御,即安閑即位としておきさえすれば何の疑問・問題も生ずることない記述になったはずである。それをわざわざ引き合いに出して本文までも変更させたのである。

 この分注の記述は,無視するどころか極めて〝重い記事〟を言い表しているのである。

こうした理解に立って「日本天皇」をみるならば,自立を目指す王朝の国名と称号の重みも自ずと明らかになるであろう。

 

(二)先のメールにおいて,「天皇」号はそれまでの「大王」や「王」の名称と異なって,この王朝のみが称することのできる称号である,としたのはこうした背景によるとの理解からである。他王朝が称することのできない「誇り高き称号」なのである。

 「墓誌」に記された「天皇」は,決して「近畿天皇家」の人物を意味しないというのは,一つにそうした理解に立つからである。

 

(三)「墓誌」に記されている「末」についても,「・・・世に生まれ」「・・・朝に奉仕し」「・・・末に没した」と一連の文章で理解するならば,極めて格調の高い,品位ある「墓誌」と言えよう。「墓誌」といいながら,正に「大仁」の冠位を賜与された人物を顕彰する文にふさわしいものと考えられるのである。

 

(四)なお,「多利思北孤」の後継者たる「利歌弥多弗利」の在位期間は「仁王」十二年から「命長」七年の二四年間である,と考えられる。それが「命長」二年の段階で「末」と表記するのは理解できない,とのメール送信者の疑問である。しかし,二四年在位中の十八年経過後を,全体の文の流れにおいて「末」と表記しても,(三)の理解からは不審とするに値しないと考えるものである。