「筑後遷都説」に対するS・K氏の疑問に答える

 

一,当ブログにアップした「筑後遷都説」に対し,S・K氏より指摘・疑問が送られてきた。

 

二,S・K氏の指摘・疑問

 ①筑後川流域に磐井・他の豪族が住んでいた痕跡があることには同意する。

 ②破壊された石人により,磐井の乱があったことは通説も認めている。

 ③ただ,筑後川沿岸に九州の大王の宮・都があったことは文献上も,考古学上も全く認められない。

 ④万葉集の読み方についても,「近江」は「おうみ」と詠まれ「水沼」ではない。

 ⑤四二六〇番歌の作者は,「大伴御行」であって,「柿本人麻呂」ではない。

 ⑥なお,「天武天皇の宮があった明日香村岡の辺りの深い田んぼを整地して都にしたことを詠んでいる」との万葉解釈を紹介している。

 

三,①~③について

(一)「磐井」についての見解

ア,「磐井の乱」の実体がどのようなものであったかの私見については,拙論:「継体紀」論で既に述べてきたとおりである。

 通説の最大の問題は,「継体紀」の末尾にある分注の解釈・説明が全くできずに無視した解釈しかできないことにある。無視しない場合は,「編者の誤解」とか「百済本記にそのような記述があったかどうかはわからない」とか「根拠なき文章」といった,「各自の一方的推論に基づく否定的見解」を述べて済ましている。

 しかし,七二〇年「日本書紀」が撰上された段階では,少なくとも編者において「百済本記」の存在や記述内容は十分知り尽くした上で記述されていたと考えるべきものであろう。しかも,その本文の「継体の崩御時期」を「百済本記」によって変えてみたり,その結果「安閑」即位に関する「三年の空白問題」を生じさせたりしている。あげくに,この問題については後代の人が「よくよく考えてみれば分かるでしょう」などと言っている。

 編者は,当時の状況を十分に分かった状態で記述しているのである。通り一辺の,単なる邪推で論じてはならない問題だと考えるのである。

 

イ,この,「百済本記」に言う「五三一年の日本の天皇等の崩薧」と「五三四年の継体崩御後の直ちに安閑即位」の記述は,一人の人物であっては到底理解し得ない,説明できない文章なのである。それ故,通説では前述のような理解・説明にいかざるをえないのである。

 別個の二人の人物がいてはじめて理解し得る記述内容となっているのである。即ち,「五三一年に太子・皇子等と俱に崩御した日本の天皇」と「五三四年に崩御した継体天皇」の二人の人物の存在が前提となってはじめて「日本書紀」を矛盾なく理解できるのである。

 

ウ,ここで「五三一年に崩御した日本の天皇」とは何なのか,誰なのかの問題がでてくる。これについて「書紀」は具体にはなにも記さない。ところが,その三年前に「磐井を討った」との記述がある。「継体」に反抗した九州の豪族との記述が「書紀」の建て前である。ということは,九州を仕切って支配していたのは「磐井」だったということを記していたのである。即ち,この「磐井」こそが「百済本記」に記されたもう一人の「日本の天皇」ではなかったか。だが,そう事は単純ではない。「書紀」は「磐井」が討たれたのは五二八年とし,その三年前としている。

 

エ,古田武彦氏は,五三一年以降五三四年までの間に,事蹟等についてなんらの表記も「継体紀」に記述がないことを不審とし,「書紀」の記述を後ろに三年ズラすべきと見たのである。その結果,五三四年に「継体」が崩御するとともに,五三一年「磐井」討たれることによって「日本の天皇等」が崩薧したとして,「書紀」自身が投げかけた問題を解決してみせたのである。私が「古田旧説」と略して呼称させていただいている,当初の古田見解である。

 

(二)「磐井の宮」に対する理解

ア,S・K氏も①,②によって筑後川流域に磐井等が住んでいて,かつ「磐井の乱」があったことも通説では認めている,としている。

 私は,「磐井の乱」は,「磐井の息子,葛子による体制内クーデター」との理解を,拙論:「継体紀」論で述べてきたが,ここでの詳述は避け,「磐井が討たれた」という事件があったことについては通説も認めている,との理解でS・K氏の見解を受け止め,それについてここでは特に異を唱えるものではない。

 

イ,指摘・疑問とされる③の問題である。「磐井」を「日本の天皇」と解する私の立場からでも,九州のどこに住んでいたかについては,S・K氏指摘のとおり,文献上直接記されている史・資料を見出すことはできない。

 ために,傍証とも言えるべきものがないかどうか,少なくともその探求は必要であろう,との考えからまとめたのが「筑後遷都説」である。

 

四,④~⑥について

(一)「多元№一七九」掲載の「服部論考」をもとに自説を述べたのが,「筑後遷都説」である。服部氏は,万葉集四二六〇・四二六一番歌を解釈するにあたって,まず「井上さやか氏」の「『万葉集』にみる天武天皇像」,『万葉古代学研究年報』第二十一号(二〇二三年)」の論考を引いている。

 

(二)井上氏によると,当該二首(四二六〇・四二六一番歌)ははやくから題詞や左注の特異性が認識されており,「壬申年之乱平定以後」とはいつのことか,「大将軍贈右大臣大伴卿」とは誰のことか,「天平勝寶四年二月二日聞之即載於茲也」とはどのような状況であったのかなど議論されてきたようです,と述べられている。

 その上で,服部氏は四二六一番歌は作者不明。四二六〇番歌については「普通に読めば,大伴御行が壬申の乱を平定した後歌った歌を,その八〇年後に大伴家持が聞き知り万葉集に掲載したことになる。」とした。だが,『「大君は神にしませば」とあるのでこの都を造った天皇はもう亡くなっている』。

 

(三)服部氏の見解と「一理ある」と同意した私の見解

 先の見解を前提として,服部氏は次のように続ける。

 『亡くなった天皇が造られた京師・皇都が「馬が腹這う田,水鳥が群れる水沼」となっている。この二首の主題は「亡くなった天皇が造られた皇都が,今は面影もない」と共通しており,これはまさしく壬申の乱後の近江京を歌ったものと考えられます。』

 ⑥で紹介されている一般的な万葉解釈については,必ずしも明らかではない「大伴卿」を「大伴御行」に比定しての解釈であって,服部氏のような理路に叶った解釈とは言い難い。これこそが,私が「服部見解」をもって「一理ある」とした理由である。なおかつ,四二六一番歌の作者不明と,「大伴卿」の不明確さを考えると,一層作歌者に対する疑念が高まるのである。

 また,「近江」を表現する際に,「おうみ」の表記以外にないとの見解も歌の世界において根拠のあるものではない。④の見解も妥当性のあるものでもない。

 

(四)歌の二重性

 題詞を離れて歌のみを見た時,服部氏の解釈の妥当性を認めてもなお,不思議な感覚が残る。ここからは,単に歌の受け取り方だけの問題である。

 服部氏は,「亡くなった天皇が造られた皇都,今は面影もない」と解釈しておられるが,歌は「馬が腹這う田,水鳥が群れる水沼」を「都とした」との表現であり,荒廃した状況を詠ったものではない,と考えられる。そうした状況の土地に都を造ったというものである。そこから,表向き「近江京」を詠いながら,もう一つの意味が歌には込められているのではないか,との疑念が生じるのである。

 表向き「近江京」を詠いながら,その実,祖先たる大君の偉業を讃え偲ぶべく,その思い詠ったものではないだろうか。そして,こうした二重性のある歌を詠める歌人と言えば,「柿本人麻呂」以外にはないと考えられるのである。即ち,大伴家持が大伴卿作と聞いたと言うものの,それが大伴御行を指すのかさえ不明であり,四二六一番歌の作者不明と考え併せれば,⑤のような断定には賛し得ないものなのである。

 まして,歌に二重の意味を持たせようとする場合,必ずしも「おうみ」と表記することはないと理解できるのではないだろうか。

 ただし,こうした私見ついて,とりわけ一元史観論者からは多くの異論が出ることは予測の範囲内であることもまた事実である。しかし,前述の三,で論じたとおり,「継体紀」は九州王朝の存在を前提に記述されている。一元史観による反論は,その前提に反するものと考える。

 

五,付言

 以上が,S・K氏の疑問に対する回答である。ご理解いただければ幸いである。

 最後に付け加えておきたいことは,このような解釈に立った場合であっても,古田氏の指摘した「水沼」を地名と解することへの疑問である。私は,地名ではなく,自然の形状の沼地である,と解したものである。そのことから,この万葉集の解釈をもって,「筑後への遷都」を根拠づけるのは困難だと考える。

 ただし,その他の遺跡・遺構によって「筑後遷都」が認められた後には,この歌がその遷都を詠ったものと解される余地が大きくなる,と考えられるのである。