「筑後遷都説」について

 

一,「筑後遷都説」への疑問と指摘

多元関係者によるオンライン研究会が,基本的に毎週金曜日に行われている。私も,令和五年二月半ばからメンバーに加えていただいた。その十一月初旬の会で,発表者との質疑の中で「筑後遷都説」なるものについて私見を述べた。これに対し,メンバーの一人から九州王朝の「筑後遷都説」は誤りである,とのメールを頂いた。その主張の要点は,考古学的出土物をみると五~八世紀にかけて,筑後地方は極めて少なく,筑紫地方が主たるものである。このことから,筑後地方への九州王朝の都の移転は認められない,というものであった。

 このメールと時を同じくするように,「多元№一七九」に,服部静尚氏の「筑後遷都説。高良玉垂命九州王朝天子説に異論を呈す」なる論考が掲載された。その主張のポイントは,①万葉集四二六〇・四二六一番歌の誤解とそれを裏付ける「太宰管内誌」の誤解。②主として五世紀において,筑後地方における考古学的遺跡の不存在である,というものである。

 両者の共通点は,主として五・六世紀における筑後地方の考古学的出土物の問題である。服部氏は加えて「万葉集」と「太宰管内誌」の問題を取り上げている。

 本稿では,服部氏の論考に対する私見を述べることで,先のメールに対する回答ともさせて頂こうとするものである。

 

二,「万葉集」四二六〇・四二六一番歌に対する服部氏の見解

「筑後遷都説」は,万葉集の「四二六〇番歌(大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ)・四二六一番歌(大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ)」からスタートしているとして,氏は次のように言う。

『この二首の主題は「亡くなった天皇が造られた皇都が,今は面影もない」と共通しており,これはまさしく壬申の乱の後の近江京を歌ったものと考えられます。・・・中略・・・これがなぜ筑後遷都説の根拠となるのか疑問なのです。水奴麻を地名と断定し筑後三瀦と見なしていますが,ただそれだけで筑後遷都の第一の根拠として言及するには無理があるのです。・・・中略・・・筑後三瀦には条坊都市遺跡の発掘が未だありません』。

 

三,柿本人麻呂作歌の二重性

服部氏の主張に一理あることは,否定できるものではないと考えられる。ただ,柿本人麻呂の歌には,表向きの歌に込めた意味の裏にもう一つの意味が込められている,との古田氏の見解もある。この二首についても,そうした内容が込められていると古田氏は考えていたのではないかと推測する。その根拠は,近江京が琵琶湖の側にあるからといって「赤駒の腹這う田居」という表現がズバリ適切かと言えば,奥歯に物の挟まったような表現にしか見えない。

この疑念を振り払うため,次の歌で「水鳥のすだく水沼」と言い換えているようにも感じられる。しかし,「水沼」が琵琶湖を指しているとの解釈も可能な一方で,矢張り「水沼」という表現ではもっと小さな「沼」のイメージしか湧いてこない,というのも事実であろう。そこにこそ,人麿ならではの二重性の表現があるとの理解なのではないだろうか。

 

四,「水沼」と「田居」のもう一つの意味

 では,一体そうしたイメージに合うもう一つの「都」とはどこなのか。決して「太宰府の地」ではないであろう。「赤駒の腹這う田居」や「水鳥のすだく水沼」のイメージをもたないからである。そうしたことから,一気に「筑後三瀦」に古田氏は進まれたのではないだろうか。服部氏の主張にもかかわらず,古田氏の想定はあながち否定できないのではないだろうか。

 ただし,このような解釈に立っても,古田氏のように「水奴麻」を地名とみることには無理があると考える。「水沼」は地形上の自然の「水沼」にすぎず,一足飛びに地名とみるのは飛躍があると思われる。ただ,こうした「水沼」は,田の整備のための水路の掘削・開設によって干上がり,やがて稲作のための田に変えられていく。それ故,後代何時までも「水沼」の形のまま残るとは限らない。その過程を匂わせるのが「田居」の表現である。その前に「赤駒の腹這う」という形容句があることから,その地はかなりドロドロの土地であることが分かる。しかし,それが「田」に続くわけであるから単なる泥地ではない。少なくとも「田」である。ところが,この「田」には「居」という言葉が付けられている。「田居」という言葉は一般にはない。人麿は何を言おうとしているのか。「田」として「居る」(ある)ということではないかと考える。

 簡単に言えば,「大君は神であるから赤駒が腹這うようなドロドロの泥地さえも都にした」ということではないか。「大君は神であるから水鳥が集まって鳴く水沼さえも都にした」というのが,二首の「裏の意味」ではないかと考えられる。

 それ故に,現代において地形上の「水沼」を求めて「都」の位置を探そうとしても,それは意味のないことだと考える。

 即ち,この歌を以て,「筑後遷都説」の一傍証と捉えることに一つの可能性を見出すにしても,位置の特定までも導き出すことは困難と言わざるを得ないと考える。

 

五,考古学的に見て筑後遷都説は成立するのか

 服部氏は,この小見出しのもと,検討を加えている。

「現在までの発掘成果によると,三世紀の日本列島で唯一都市とも言える遺跡が福岡市の比恵那珂遺跡だとしている。この遺跡は弥生中期後半から四世紀末までの間に,初期の都市化があって,その後一時すたれます。そして,六世紀後半から七世紀後半までの間に,第二の都市化がみられるのです。ここから五世紀初頭から六世紀中葉まで,都が別の場所に遷っていたことになります。」

この見解については,同意できると考える。その上で氏は,「遷都」場所について考古学的にどのようであるかの検討を加えている。

「ここで五世紀初頭という時期は,日本列島で初期の須恵器が現れる時期です。」として,その窯跡群の実体を分析している。その結果として,「筑後三瀦ではなく,博多湾岸から筑前内陸部,朝倉郡・夜須郡までにあったと考えられる。」とした(石本秀啓「西海道北部の土器生産」を引用)。更に石本氏資料によると,筑後八女市に窯跡が出現するのは,六世紀中頃以降であるともしている。

こうしたことから,「五世紀全般において皇都=人口密集地は比恵那珂遺跡からは遷ったものの,筑後三瀦ではなく,博多湾岸から筑前内陸部・朝倉郡・夜須郡までの地域であったと考えられるのです。」とまとめている。

 このような分析は,冒頭紹介したメールとも共通するものである。だが,この見解は,専ら「須恵器やその窯跡」のみに着目したものである。考古学的遺跡や遺物は,決してそれのみに限られるものではないであろう。特に八女市には見逃せない遺跡・遺物が存在している。これらについての評価が抜け落ちていると考えられる。

 

六,「八女市」に残る考古学的遺跡・遺物について

①石人・石馬と「衙頭」遺跡

②八女古墳群の存在

③「磐井」の墓と見られる「岩戸山古墳」

④「葛子」の墓と見られる「鶴見山古墳」

⑤「鶴見山古墳」から出土した「石馬」

⑥古田氏が突き止めた「正倉院」の地名(古田武彦『「九州年号」の研究』一五九頁以下)。

 このような考古学的遺跡・遺物についての評価なくして,「筑後遷都説」を否定するのは早計ではないだろうか。

 

七,「衙頭裁判制度」による遺跡・遺物の評価

 「多元№一七七・一七八」に掲載した拙論:「継体紀」論において,「磐井=九州王朝の継体天皇」とした。その「磐井」の大きな政策が「衙頭裁判制度」とし,それが「恐怖政治」を招き「葛子のクーデター」につながった,との主張をした。

 この「衙頭裁判制度」の遺跡こそ,八女市に残る「石人・石馬」の立つ「衙頭」の遺跡なのである。勿論,日本列島のどこにもこのような遺跡はない。

 更にその近隣に「岩戸山古墳」があり,八女古墳群の一番はずれに「鶴見山古墳」がある。そしてその「鶴見山古墳」から「壊れた石人」が埋葬物として出土しているのである。正に「葛子」は「石人」を抱いて(あたかもその実効性を失わせるかのように)葬られているのである。

 こうしたことから,「磐井」はこのを近辺を拠点としていたことが窺え,反乱した「葛子」もその地にあった,と想定する。同時に「岩戸山古墳」と「鶴見山古墳」の間に存在する八女古墳群は,「磐井」につながる「九州王朝の支配者達」の墓と予測する。

 また,古田氏が突き止めた「正倉院」の問題である。詳細は氏の論考によるべきであるが,「筑後国交替実録帳」によれば,「正倉院」だけではなく,「正院」や「宮城大垣」とワンセットであったと記されている。決して,小さな施設ではなかった,と見られる。

(なお,この造営者は崇道天皇とされているが,これについては拙論:「崇道天皇」とは誰かを参照。・・・白村江の戦いの敗戦で唐に捕囚され,九州王朝の支配者としての地位を放棄させられた明日香皇子に対し,後代天皇名を諡号する際,功績なき明日香皇子に一つの功績を与えるため造営者として記述されたものとの見解を載せている)

 

八,「糟屋の屯倉」問題

 「磐井の乱」の後,「葛子」が贖罪のため,「物部麁鹿火」に「糟屋の屯倉」を与えた,と「書紀」は記すが,拙論において,これは「葛子」がクーデターの協力者としての「麁鹿火」に恩賞として与えたものとの見解を述べた。

 仮に,都が筑紫にあったならば,「糟屋の屯倉」のエリアを失うことは,玄界灘への出口を塞がれることとなり,(中国との直接交流は絶えていたにせよ)朝鮮半島との交流に大きな痛手となる。恩賞となれば,地理的に容易に手放せるエリアではない,というべきであろう。一方,筑後に都を持つ場合は,有明海からの航路があり,かつ又「糟屋地方」は九州北部の一端であることから,手放すことができたものと考え得る。

 以上のようなことから,「磐井」の時代,都は「筑後」にあったとしたものである。

 

九,須恵器や窯跡の不存在という指摘をどう見るのか

 前述のような六世紀中葉まで須恵器やその窯跡が筑後にはない,との指摘をどのように受け止めるべきなのか。

 一つは,古田氏がその著書「ここに古代王朝ありき」の中で「空白の三世紀」問題を指摘している。その主張するところ「土器編年の不確実性」である。この問題が,五・六世紀まで引きずられているのかについては議論のあるところであろう。だが,考古学的編年を考えるにあたっては,古田氏の主張するような指摘をクリアにした抜本的な編年体系が構築されなければ,文献史学を支える根拠とするには「信頼性に揺るぎがある」としか言い得ない,というのが私の立場・見解である。

 二つ目は,仮に編年上の問題がクリヤーできたにせよ,須恵器の生産が,何時・どこから・どのような人々によってもたらされ,筑前にその萌芽が認められたのか,それは人口集積地でなければならなかったのか,土を含む生産財との関係はなかったのか,などの疑問について十分な検証が為されなければならないと考える。

 私見で言えば,須恵器問題は,未だ「筑後遷都説」を否定し得るだけの根拠とするには不十分であると考える。

 

十,「筑後」から「太宰府の地」への「遷都」に絡む問題について

 「九州王朝」の都は,博多湾岸から遷り,「磐井=九州王朝の継体天皇」の時代には,「三瀦」かどうかは別として「筑後地方」にあったとの見解を述べてきた。

 だが,この私見についての問題点は残されている。それは,肝心の遺構が筑後地方からは出土していないことである。勿論,「筑後遷都説」を否定する立場からも,これといった決定的な遺構を示すことはできていない。ただし,「太宰府」の遺構をもって,この時代やそれ以前の時代までも遡らせる見解もあるが,十分な根拠は示せておらず,異論も多いところでもある。

 「筑後」から「太宰府の地」への遷都時期を何時とみるかの文献史学上の根拠としては,正木・古賀氏らの主張するところの「九州年号に見る『定居』・『倭京』」の改元時期との見解をもって〝是〟とするものである。

 

十一,「高良玉垂命」に関する問題

 古賀達也氏は「太宰管内誌」の中に見える「大善寺」を調査し,「玉垂命とは天子の称号であり,ある時期の九州王朝の歴代倭王を意味する」と述べている。また古田氏も,「明暦・文久本古系図」及び「高良社大祝旧紀抜書」により,九州王朝の天子との関連性を指摘している。

 これに対し,今回の論考において服部氏は,「明暦・文久古系図」は天子・天皇の家系図ではなくて,臣下の系図であるとした。また,「吉山旧記」に記されている内容をみても,初代高良玉垂命は記紀に現れる武内宿禰とつながり,藤大臣は武内宿禰であって高良玉垂命となった。いずれも天子・天皇では無くて臣下の家系図なのです,と述べている。

 この問題のいずれの当否について,未だ論ずるだけの史・資料を持ち合わせてはいない。ただ,「筑後遷都説」の是非を論ずるに当たって,その見解の当否までも左右する問題ではないと考えている。ために,この論考において,この問題を取り上げることは控えたい。