「閑話休題」(六一)

 

一,「多元№一七七」に「継体紀論考」(一)を,「同№一七八」に同考(二)を掲載していただいた。これまで,自らのブログに五年以上にわたって様々な論考を自由にアップしてきたが,余り多くの反応を示されることはなかった。しかし,「多元」という会誌に掲載されると反響を呼ぶものだと,改めて実感させられる。

 

二,論考(一)についての清水淹氏からの異論については,当ブログにおいて「継体紀論考」(補稿)として,自説を改めてアップしたところである。その後,「多元№一七九」には,論考(二)に対する内倉氏の批判論考が掲載されている。

 これについても,改めて(補稿・続)として自説を述べる予定である。この間にも,「多元」を読んだとされる方から手紙が届き,別途見解を求められた。正月を挟んで,個人的にも多忙であったため,最近になってやっと返信できたところである。

 

三,現在「乙巳の変」の論考を書いている途中であるが,多忙と怠惰が入り混じった生活を送っているせいもあり,中断したまま一向に先に進まない。昨年中には書き上げ,今年は「大化改新」からスタートとしようと考えていたが,ズレにズレそうである。

 (内倉論考への対応を優先すると,ますます遅れる懸念大。)

 これまで,五年以上にわたって,論考を月一本,「閑話休題」も月一本,それぞれブログにアップしてきた。しかしどうやら今年はこれを守っていくのは,自己の生活態度や年齢・体力を考えると無理なようになっていきそうである。

 

四,とりわけ,天武朝以降文武朝の中途七〇一年までの歴史については,非常に難しいものがある。いわゆる「九州王朝の衰亡から日本国成立」までの期間の歴史の変遷である。

 基本的には,「近畿天皇家」の歴史が主柱となると考えているが,まだまだ「九州王朝」の影響が色濃く残されている部分も多い。そのため,両王朝の混在する問題の整理が必要となる。しかし,一元史観論者の論考は,江戸時代から現在に至るまで余りに多くの論点とそれに絡む厖大な論考がある。そうした論考に触れずして,一方的に自説を論じても十分な検討がなされたとは言えない。道理である。

 この作業は,「多元史観」に立った論考が極めて少なく,更に「隋書」という極めて信頼性の高い中国史書が存在する天智朝までとは大違いである。ために天武朝以降の歴史の全体像が今もって自分の頭の中で描き切れていないのが実情である。

 

五,令和六年,辰年の新年を迎えながら早々から余り芳しくない「閑話休題」となってしまった。ただ自らを省み,これからはペースを落として,無理のない形で,ゆっくりとした歩みで,「古田史学」を追い求めていくこととしたい。