「継体紀」論(補稿)

 

一,多元№一七七号に,拙稿『「継体紀」論「磐井の乱」の真相』なるものを掲載していただいた。これに対し清水淹氏が,同誌一七八号で早速,「会誌一七七号を読んで」により,拙稿への疑問を述べられた。

 氏の疑問を読んで感じたことは,自己の論考の趣旨が十分には読み手に伝わってはいない,という自らの拙さを実感させられたことである。そこで,氏の疑問に答える形で,この補稿をしたため,改めて趣旨を整理しておきたいと考えたところである。

 

二,氏の疑問

①古田旧説を支持されているように見えたが,「衙頭」の解釈が清水氏と真逆であることに抵抗感がある。

 衙頭裁判制度は進んだ官僚制度で近畿の豪族制度に比較して,進んだ社会制度を示している。

②(物部麁鹿火は)磐井の首領を不意打ちすれば,磐井軍は解体すると思っていたでしょう。

③ただ,早速困るのは食料です。糟屋の屯倉の食料を交換条件として,早期解決は両者の望むところです。

④近畿の継体は畿内豪族に麁鹿火の奮闘を最大限に言いふらした。「磐井を殺し,糟屋の屯倉を採ったのだ」と。

⑤然し近畿の豪族たちはこれまで同様,九州倭国の掣肘は受け続けた。

 

三,古田氏の新説・旧説に対する見解

(一)古田氏は,継体紀の分注「日本天皇及び太子・皇子,俱に崩薧りましぬ」と安閑元年条「男大迹天皇,大兄をたてて天皇としたまふ。即日に,男大迹天皇崩りましぬ。」及び同条の終わりの「是年,太歳甲寅(五三四年)」の記述を関連させて解釈すべきとした。

 理由は,書紀の記述のままでは,「継体崩御」と「安閑即位」の間に「三年空白」の問題が生じ,「書紀」自体が矛盾を抱えたままとなってしまう。この三年間に,記述すべきことが何もない,ということは不自然である。むしろ,「百済本記」に従った結果,記述内容が三年繰り上げられて記述されているのであろう,とした。その結果,「継体紀」を後ろに三年ずらすこととして「三年空白問題」を解消しようとしたものである。

 これによって,次のような大きな見解を得るに至った。

①「日本書紀」にある「継体二二年冬一一月の物部麁鹿火と磐井の交戦」記事は,三年後にずれ,「継体二五年」の出来事と理解される。

②これは,本文から離れて,分注にある「日本の天皇・太子等が俱に崩・薧御したのが二五年にあたる」との記述と一致する。従って,「磐井」が「麁鹿火」によって討たれた(一般に言う「磐井の乱」)は「継体二五年(五三一)」と解される。

③では,五三四年崩御とされる「男大迹天皇」との関係はどうなるのか。氏は,これは『近畿天皇家の人物で死後に「継体」を諡号された者である。一方,「麁鹿火」に討たれた「磐井」は生前中に「継体」を諱とした九州王朝の人物』とした。

 これは誠に〝卓見〟であり,異論の差し挟む余地のない見解と理解した。私が古田旧説を支持するとした大きな要因である。

 

(二)ところが,この古田説に対し,

ア,「男大迹天皇」の指示を受けた「物部麁鹿火」が,「磐井=継体天皇」を討ち,その子「葛子」が贖罪のため「糟屋の屯倉」を「麁鹿火」を差し出した,との「書紀」の記述に従えば,九州王朝の支配は近畿天皇家の支配に取って代わられたことにならないのか。

 イ,もともと「近畿天皇家」は九州も支配していたとの「書紀=一元史観」にたてば,「磐井」が反乱を起こし,「麁鹿火」がそれを討ち取って反乱を収め,近畿に凱旋したものである。こうした理解に立てば,「三年空白問題」は別として,「書紀」の記述に矛盾はないのではないか。

との疑問・指摘が,多元史観・一元史観の両方から出されることとなった。

 

(三)清水氏の疑問②~④は,「磐井の反乱」に対し,「物部麁鹿火」が征伐に行き,戦勝後「近畿天皇家の継体天皇」のもとへ,戦利品の食料を持ち返って凱旋したとの見解に立っている。これは正に,前述(二)イに見る一元史観論からの疑問・反論と軌を一つにするものに他ならないのである。

 この一元史観論からの疑問・反論に対し,古田氏は明確に反論し,否定している。

ⅰ「男大迹」と「麁鹿火」との間で,勝利後は互いに関門海峡の東西を分割統治をしようとの約束があったはずなのに,それが実行された様子が無い。

ⅱ九州の豪族「磐井」を討っておきながら,わずかに「糟屋の屯倉」を得ただけで満足してすべてを終わりにしている。

ⅲ「男大迹」の指示を受けて「麁鹿火」が九州に軍を引き連れて入ってきているのに,何らの戦闘の跡もなく,余りにスムーズに・平穏に入ってきている。

ⅳそもそも,「男大迹」は越前国から大和へは簡単には入ることができず,こうした戦いを「麁鹿火」に指示できる力も,状況にもなかった。

ⅴこうしたことから,「磐井の乱」と称される事件に「男大迹」は関与していない。

 

(四)一方,古田氏を最も悩ませたのが,(二)アの多元史観からの疑問であった。氏も,矢張り「麁鹿火」が「磐井」を征伐した後の九州の支配者の変更に対する有効な反論を見出すことができずにいた。

 すなわち,「磐井」が斬殺された後は,九州は「九州王朝」の支配から「近畿天皇家」,あるいはその配下の「物部麁鹿火」の支配下に入ってしまった,との疑問・反論に対する答えを持ち得なかったのである。

 そして悩みぬいた末旧説を撤回し,「磐井の乱」はなかった,との新説へと転換されたのである。しかし,新説は旧説に対し,極めて問題が多く,到底支持できるものではなかったことは拙論:「継体紀」論(一)(二)で論述したとおりである。旧説の妥当性を論じるにあたって,古田氏のこの部分の見解の見直しができるかどうかの検討が必要となった。

 

(五)その際,最も重要なフレーズとなったのは,『贖罪のため「葛子」が「糟屋の屯倉」を「物部麁鹿火」を与えた』である。この短いフレーズには,これまで全く見逃されてきた大きな事実が内包されていたことに気付いたのである。

ⅰ「屯倉」に関するこれまでの通説は,「近畿天皇家」の所有・管理するものとしている。しかし,「葛子」は「近畿天皇家」の承諾も何もなく,自分で勝手に「麁鹿火」に与えている。一体,そのような処分権限はどこからきているのか。

ⅱ「書紀」の建て前からいけば,「磐井」は豪族であり,「葛子」はその子である。豪族であれば,その支配地に土地や私民を有しているはずである。その「磐井」が斬殺された時,「麁鹿火」は,何故その支配地や私民を取り上げずに,わずかばかりの「糟屋の屯倉」だけを受け取って満足して引き揚げてしまったのか。

ⅲそれは,逆に「磐井」のその地の支配実態に「糟屋の屯倉」を除いて何等の変更が起きなかったことになるのではないか。

ⅳ同時に,「屯倉」についても「糟屋」の限定句がついていることから,残りの「屯倉」については無傷のまま「葛子」に残されたのではないか。

ⅴそれは,支配領域の少しの縮小はあったものの,「磐井」の死亡によって,九州における後継者たる「葛子」の支配実態に大きな変更はなかったということを意味するのではないか。

ⅵこうした観点に立つと,「葛子」と「麁鹿火」の関係は逆転するのではないか。

ⅶ即ち,九州の後継支配者「葛子」が主であり,「麁鹿火」が従となり,「磐井斬殺事件」を共同実行したのではないか,との疑念が湧く。そして,その目的達成後,「葛子」は恩賞として,自己が後継した屯倉の中から,「糟屋の屯倉」を「麁鹿火」に与えたものではなかったか。

Ⅷそれの意味するところ,「磐井の乱」と「書紀」に記された事件は,『「葛子」による父「磐井」に対する体制内クーデターであった』ということである。

 

(六)古田氏は,この部分の分析・検討をなされなかったため,自らの旧説を維持できなかったものと考えられる。

 しかし,これについても更なる疑問・反論が予想される。

 では,「葛子」がクーデターを起こさなければならなかった理由は何なのか,という点である。

 このことこそが,清水氏の①の「衙頭裁判制度」に対する疑問に直結する問題なのである。「衙頭裁判制度」は清水氏の言うとおり,「進んだ官僚制度」であり「進んだ社会制度」であったと評価することについては,同感であり,全く異論はない。

 問題なのは六世紀前半において,それを受け入れるだけの社会基盤が整っていたのか,なのである。

 

ア,余り重要な問題として議論の俎上にのぼってくることのないのが「紙」とそれを制作するための技術,すなわち「製紙技術」と「紙の普及」についてである。「書紀」によれば,大陸から「製紙技術」が伝来したのは「推古朝」の時代だとされている。列島内で一般庶民の間に普及するのは当然のことながらそれ以降であった。

 この問題については,拙論:「文字論考」で論じているが,紙が普及する以前には,庶民の間では文字はほとんど使われていなかったのである。これを「隋書」が証言している。「俀国伝」で,庶民の暮らしぶりを記す中に「無文字」が表現されている。これについて,「卑弥呼」の時代から文字は使われていて「無文字」を誤解と説明する論者もある。しかし,支配者や仏教伝来などによる「経」を身近にしていた寺社など,一部の知識階層を除いては,文字を必要とする生活を送ってはいなかったのである。「製紙技術」のない時代に庶民には文字を媒介とした生活は有り得なかったのである。これを逆に証明するのが,「舊唐書」における「頗る文字あり」の記事である。正に,「製紙技術」の伝来により,不完全ながらも庶民にも紙がいきわたり,文字が普及していたのである。

 

イ,庶民の中に紙がなく,従って文字も使われていない六世紀前半において,「衙頭裁判制度」はどのように運用されていたのか。否,むしろ運用できたのだろうか。

 処罰の対象となるべき犯罪が何であるのか,罰の内容が「鞭打ちなのか,追放なのか,死罪なのか,それ以外なのか」,等の基本的な事項をどうやって庶民に知らせたのか。それだけではない,声の大きいものが訴え出れば,「白も黒に,黒が白に」となるような現実ではなかったか。要は,現場を全く知らない「いわゆる,お上」のようなものに訴え出るだけの話であるから,「声の大きい者」だけが勝つシステムにならざるを得なかったのではないか。これこそが一般庶民にとって,平安な日常生活を脅かす大きな不安・不満を呼び起こす要因となっていたことは想像するに難くない。

 換言すれば,「先進的な衙頭裁判制度の運用は,『恐怖政治』と裏腹な関係」となってしまったのである。

 これこそが,「葛子クーデター」の最大要因だったと考えられるのである。

 

ウ,ちなみに,我が国において,律令制の実施は「浄御原律令」又は「大宝律令」の実施までは,「律」を定めることができなかった。それは,「紙」と「文字」の普及まで「犯罪・刑罰」を定めることについての支配者側の危機意識が残されたことのあらわれでもあったのである。「葛子のクーデター」はそうした教訓を支配者に残したのである。

 そしてまた,一般庶民による不安・不満が直接為政者に向けられることのないように,との工夫は「二重年号」にみることもできる。庶民に直接向き合う支配者と,その上に立ってその支配者を支配する間接統治の形態こそ「二重年号」の本質であった。

 六〇〇年の第一回遣隋使の際「隋の文帝」により「義理なし」と咎められた支配形態こそ,この間接統治の形態だったのである。

 

四,結語

 「葛子のクーデター」を肯定することにより,「九州王朝」の継続が認められ,「近畿天皇家」に優先する列島内の宗主国の地位が確認される。

 清水氏の疑問⑤「近畿の豪族たちはこれまで同様,九州倭国の掣肘を受け続けた」は,「九州王朝」の継続存続の理解によってのみ肯定されるものと考える。