「推古朝遣唐使」についての日野氏の疑問に答える

 

一,日頃私はほとんどエゴ・サーチなるものを行っていません。自分のブログに掲載している論考については,ブログ内で意見・感想などを返信してもらうようになっているためです。ただ,今回は「多元の会」の会誌に論考を掲載していただいたので,どのような意見・反論が為されているかを確かめる必要もあろうかと思い,エゴ・サーチなるものを行ってみたところです。

 すると,そこに日野智貴氏の(ノート)の記述が確認されました。その(ノート)には『「推古朝遣唐使」記事盗用説の成り立たない理由』の標題の下,拙論についての反論が記されていました。この(ノート)は(一)から始まり,今日時点で(四)まで続いていますが,まだ「つづく」とされていることから,返答文をアップするにはいささか早すぎるきらいもあるかとも思いました。ただ,拙論への誤解が反論の主柱を為しているように見受けられていることから,誤解は早めに解いておくほうが良いだろう,とも考え,敢てアップの道をとることとしました。

 

二,拙論は,これまでの多くの先達者の論考には全く見られない独自の分析結果を論じたものであり,そう簡単には多くの人々に理解を得られることはないだろうとの予測の下に投稿したものです。その意味でも,どのような観点・視点からの批判・反論があるのか,拙論の信憑性・史実性を確認するためにも,正直待っていた部分もあります。

 今回の日野氏の(ノート)は,私にとっては有り難い批判・反論であります。ただ,(一)では,「拙論を読んでいない」との書き出しで氏の持論の展開をスタートさせているため,応えるべき(ノート)ではないと判断しておりました。しかし,(三)に至って,それはフェアではないとして,私のブログ「推古朝の遣唐使」(一)~(六)を読んだとしたうえで,改めて批判・反論を展開し始めているようです。

 ただ,私のブログを読まれる以前の(一)及び(二)については,正直余り関心がありません。従って,継続中とは承知の上で,と(三)及び(四)に書かれている氏の見解について,私の主張した内容との齟齬を指摘しておきたいと考えます。

 

三,(ノート)(三)に見る氏の主張

①「古代に真実を求めて」所収の氏の論考が無視されていることへの不満。

②にもかかわらず,谷本氏の十二年後差説を私が評価しているのではないか,との疑念。

③佐伯有清氏の「史学雑誌」の「回顧と展望」での指摘を無視していることへの問題意識。

④「『日本書紀』の編者はわざと矛盾する文章を書いたんだ!それは九州王朝の存在を知ってもらうためだ!」と言ったところで,歴史学会において相手にされるはずが無いでしょう。また,意図的に矛盾する記述を正史に書いたりしたら,首が飛んでもおかしくありません。」(原文のママ),との批判。

⑤なお,「2つの事件の合成」と拙論が主張していることは取り上げている。

 

四,(ノート)(四)に見る氏の主張

①「『日本書紀』「推古紀」によると,推古一六年に裴世清が唐に帰る際,小野妹子や高向

玄理,南淵承安も一緒に唐に渡ったと言います。さて黒澤正延氏はこの記事について,通説通り六〇八年であり,「唐」は「隋」のことで,そして『隋書』「俀国伝」における裴清の記事と一致するとします。」(原文のママ)と日野氏は解されているようです。

②「小野妹子」の冠位が,九州王朝の人物と解する根拠であるという黒澤見解について,氏は,「大和政権も俀国も同じ倭国の一部なのですから,小野妹子が俀国の冠位を持っていても何ら不思議ではない。」とし,更に「後世の大和朝廷は外国人にも位階を授けています。位階は外国人には授与しない,と決まったのは明治以降の常識です。官職や位階,冠位は国籍とはあまり関係が無いのです。その上で,明らかに大和政権側の人間であることを否定するのは,あまりにも根拠の乏しい仮説であると考えます。」(いずれも原文のママ),との批判。

③「小野神社」を近畿に縁もゆかりもない「小野氏」が創建したとは考えられない,との批判。

④日野氏自身もこれまで「十二年ズレ説」を主張してきたが,それについて「編者が意図的にずらしたのではなく,原史料自体に年代のズレがあった。」と考えて問題ない,との主張。

 

五,(ノート)(三)への反論と釈明

三―①,日野氏の「『日本書紀』十二年後差と大化の改新」なる論考を取り上げていない理由について

日野氏の論考は,古田氏の「十二年後差説」を基本的に認めつつ,その適用範囲を論証しようとするものであった。

 だが,拙論では,その古田氏の「年表不成立説」を否定した。更に蘇因高と裴世清の来倭の時期を,「多利思北孤」の訃報による六二二年の事件としたものである。即ち,最初に「十二年程度のズレ」を主唱した古田説を否定すれば,その後に続く古田肯定説を改めて論ずる必要はないものとして,関連論考は紙幅から省くこととしたまでである。

 また,ブログでは論じているが(多元紙上では,次号掲載となるが),そこでは,ズレの問題は推古紀の範囲内で収まっており,舒明期やまして天智紀にまで及ぶものではない,との見解を示している。

 この意味でも,「十二年後差説」への説明は足りていると判断したものである。

三―②谷本氏の「十二年後差説」を私が評価しているとの氏の見解は誤解である。

 正木氏などが,唐の混乱時期を理由に「十四年誤差説」を主張していることについて,谷本氏が「その理由だけで誤差年を求めるのは無理だ」といっていることに同意しただけのことである。それによって「十二年後差」に戻ってそれで良い,としたわけではない。その証拠が,それに続く「多利思北孤」の訃報による帰国時期の決定文である。

三―③佐伯有清氏の論考について

 氏の論考については,ご指摘のとおり私には全く以て不明です。氏の見解がどのようなものであったのか,後学の課題とさせて頂きます。

三―④「書紀」は「意図的に矛盾記事を書いた」とする私の見解への疑問

 私のブログに『?「日本書紀」の不思議』という論考があります。そこでは,「日本書紀」の記述の中で,明らかに矛盾した記事や記述の意味が良く分からないといった内容のものを幾つも取り上げています。

 ここにいちいち再掲はしませんが,その中の最たるものは「郡評問題」です。古代史研究者であれば誰でも知っているでしょうこの問題。

 書紀編者は意図せずに「評」を「郡」に書き換えているのでしょうか。これも,すべて原史料が「郡」であったと日野氏は主張されるのでしょうか。それとも,意図的に書いて飛ばされた首があったとでもいうのでしょうか。

 「書紀」の「郡」を「評」と解して,歴史学会から相手にされないのでしょうか。

 このような書き換えを単なる一事として,他への波及を考えないのでしょうか。だとすれば,何故書き換えられたのか,それ以外に波及しないとする見解が求められることとなるでしょう。

三―⑤「二つの事件の合成」と一応拙論について紹介されておりますが,その後の氏の主張をみますと,拙論に対するかなりの誤解があるようです。

 改めて私の主張を整理して書きます。

 ⅰ六〇七年九州王朝の「多利思北孤」が「大礼小野妹子」を使者,「鞍作福利」を通事として「隋」に派遣。このとき,妹子に「国書」を託す。

 ⅱ六〇八年「妹子」,「文林郎裴清」と共に帰国。

  その際,妹子は「隋・煬帝」から返書にあたる「国書」を「百済において掠め採られた」と報告。

 ⅲ六一〇年「裴清」帰国。その際,「妹子と沙門」等が同行。(国交断絶により隋に止まる。六一八年唐成立。)

 Ⅳ六二二年「多利思北孤」の訃報を受け,「妹子」等唐より帰国。そこに「鴻臚寺の掌客裴世清」同行。

  筑紫到着後,「裴世清」は九州王朝の後継者「利歌弥多弗利」に「天子」の自棄を迫る。

  六月,近畿天皇家の「推古天皇」に対し,「裴世清」は唐からの国書を奏上。

  推古天皇からの返書にあたる「国書」を持って「裴世清」帰国。

  この時,「蘇因高=小野妹子」のほか,近畿天皇家から「小使吉士雄成」や留学生として高向玄理や南淵請安等を派遣。

  (これ等は,既にブログでは掲載済であるが,多元紙上では一部次号掲載となっている。)

 ⅴ前記の内,ⅱとⅳの事件が「書紀」では合体し,推古十六年の条に一括して記述されている,というものである。そして,合体の都合上ⅰの妹子派遣記事を記述せざる

得なくなった。妹子が,唐から裴世清と来倭するためには,中国大陸に滞在していなければならかったため,である。

 

六,(ノート)(四)への反論と釈明

四―①日野氏の誤解による一方的な批判

唐からの使者裴世清(隋からの六〇八年の使者は裴清と名が違っていることに注意を要する)の帰国は六二二年である。この時,同行したのは「妹子や雄成」の外,近畿天皇家縁の「南淵請安や高向玄理などの留学生」であったとしたものであり,前記五,の三―⑤のⅳに再掲したとおりである。

 これについて日野氏は,私の論考を「通説通りの六〇八年としている」と誤解された上   

 で批判を展開されている。「裴清」の来倭も「裴世清」の来倭もいづれも六〇八年と解するならば,「二つの事件・事象を合体して書紀が記述した」などとの主張は元から有り得ないでしょう。

四―②「小野妹子」を「九州王朝」の人物と見ることへの批判

 ア,これについては,多元掲載の論考等にも記述したとおり,「古田・正木・谷川」の各氏などの多元史観論者においても「近畿天皇家」に属する人物と解することは共通である。これを「九州王朝」の人物とする私の見解は,多元史観論者の中でも,極めて異端であることは十分承知している。

 だが,論考の中で「ブログ「遣隋使の派遣者と使者は誰か」参照,と断り書きを入れた通り,この問題についての論述をこの論考では避けた。それは,この問題は多くの論証を必要とするため,独立して別途で論ずるのが良いと判断したためでもある。

 ただ,「冠位」についてだけ採りあげておいたものである。しかし,これについて日野氏の理解は得られなかったようである。多元論者の多数が「近畿天皇家」に属する人物と見做している点から言えば,それは止むを得ないこととも言えるであろう。

 イ,しかし,「隋書」では「冠位十二階制」の実体について「内官」と記されている。そしてこの冠位制の最初の変更を「書紀」は「孝徳天皇の大化五年二月」(冠位十九階)としている。即ち,六〇八年や六二二年においては,あくまでも「内官」としての「冠位十二階制」を理解するのが文献史学上の常道だと考える。それを後代の「冠位」の取り扱い,それも明治時代まで持ち出して批判の根拠とするのは私にとっては論外である。少なくとも「内官」である以上,「九州王朝」内部の臣下の者についてのみ与えられていると考える。倭国内とは言え,俀国以外の国々の人々は冠位を与えられる対象とはならないことが「内官」の意味と考えている。それが,大化の改正によって,一部俀国以外の者にも拡大されたものとの考えである。

四―③「小野氏」と近畿の縁

既に,私はブログの『「崇道天皇」とは誰か』についての一考察(其の五)においてこの問題を論述してきている。そこでは,妹子の子である「小野毛人の墓」が京都市左京区の「崇道神社」の裏山にあり,かつ毛人が「朝臣」であったことから,九州王朝の人物だとした古田説を肯定した。「小野神社」創建にあたって,「小野氏」が九州王朝の人物だとすれば,「近畿に縁もゆかりもない」との日野氏の主張は当たらないと考える。

四―②追記

妹子を「九州王朝」の人物と見ることについて,もう一つの論拠を示した,と考えていることがある。それは,「国書喪失」の報告問題である。そこでは,「妹子は国書を百済で掠め取られたとの報告を誰に対して行ったのか」という問題提起をしている。

 前述したとおり,倭国側から出された「国書」は,六〇七年「多利思北孤」が「隋の煬帝」に宛てたものと,六二二年「推古天皇」が唐への返書として出した「国書」があるのみである。

 こうした状況下で,妹子は誰に対して「中国側からの返書としての国書」についての報告義務があったと考えるのか。「国書」を送った者に対してしか報告義務は生じないであろう。まして持参していない「国書」についてまで「掠め取られた」などと言うのは,余程の報告義務があったとしか言い得ない。即ち,「国書」を送った人物にしか報告義務は発生しない,とするのが私の主張である。

 それ故,「妹子」の報告は,送り主の「多利思北孤」に対して行われた,としか考えられない。「推古天皇」への報告と考えるのであれば,それについての史料上の論拠が必要となるであろう。

 要は,「多利思北孤」は配下の「小野妹子」に「大礼」の冠位を付けて,「国書」を持たせて「隋」へ六〇七年に派遣した。「妹子」は「返書」を持たされることなく手ぶらで帰国せざるを得なかった。それどころか「文林郎裴清」を付けられて,「俀国王=多利思北孤」への面会を要求されていたのである。

四―④年代ズレに関する日野主張への疑問

日野氏は,「日本書紀」が「九州王朝」の史書から盗用するときは,年代のズレがある,としている。そして,「(日本書紀)の編者が意図的にずらしたのではなく,原史料自体に年代のズレがあった」(原文のママ)としている。

 これは何を意味しているのか。原史料とは当然九州王朝の史書を指すのであろうから,九州王朝は年代のズレた史書を作成していたと言うのであろうか。連続した九州年号を制定していた九州王朝が,そのようにズレた史書を作成していたとするなら,その論拠を明確にすべきであろう。その論拠を示した論考を教えて欲しい。

 

七,おわりに

氏の(ノート)が「つづく」とされている中で,とりあえず(ノート)(三)(四)についてのみ反論・釈明を行った。冒頭に示した通り,氏の誤解を解いておく必要を感じたからである。他意の無いことを断っておきたい。