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SIS日記

NPO法人SIS(シス)スタッフによるリレー形式の日記です。
「こころが動いたこと」や「共有したいささやかな出来事」など
スタッフの「想い」を定期的に更新していきます。
どうぞお楽しみに!

子どもが「食べる」ということ 〔養育論〕


前回、絵本「ちいさな いすの はなし」(竹下文子・文、鈴木まもる・絵、ハッピーオウル社・刊)を紹介した。それで、我が家にも小さな椅子があることを思い出した。子ども用の小さな椅子で、手作りのものだ。現在、9歳になっている孫Kが生まれた時に、娘(Kの母親)の友人が作ってプレゼントしてくれたものだった。物置にしまわれているが、今も使えるほどしっかりしていて、シンプルで温かみのある素敵な椅子だ。(写真)

Kが件の椅子に座って食事をする、印象的な場面がある。

Kは、とにかく小さい時からジッとしていられない子だった。歩行器に乗り始めると、外廊下を高速道のごとく走り回る。あまりにも何度も庭に落ちるので、特設の柵を作って防御した。キッカー(直接足で蹴って走行する低い自転車)に乗り始めると、少しでも目を話すと制止も聞かずに猛スピードで道路へ行ってしまう。常に誰かが目を離さずにいて、追いかけなければならない。追いかけると、喜々として遠くへ行く。まるで、「ダメ」を「GO!」と聞き違えているようだった。

昼寝している時と、件の椅子に座っている時は、大人がホッと一息つける時だった。

Kが、離乳食から少しずつ通常食へと切り替えをする頃のことだった。居間を通りかかってKが食事を摂っている様子を見て、仰天した。ビニールの敷物の真ん中に件の椅子があり、Kが座っている。それはいいが、敷物には食べ物の断片があちこち散乱し、スプーンも散乱し、おまけにKは食器から直接手づかみで食べている。Kの頬にも服にも食べ物の断片がくっついている。

私はその場に釘付けになったが、すぐ傍に娘(母親)が付き添っているのを見てアァーと思い、立ち去った。

アァーと私が思ったことと、後から娘に話を聞いたことが符合した。要点は、こういうことだ。

一つは、絶対に、ずっとこういう状態ではないはずだ。
二つには、マナーや順序を教えるのを先行させない。自分が身体ごとつかむだろう。
三つには、大人は子どもの様子を見ながら付き添いに徹する。


案の定、やがてKの食べ方は落ち着いてきた。敷物を広げるのもしなくなった。娘がさりげなくスプーンを与えると、要領よく使う。むしろ、この年齢では早いくらいだった。食べながら遊び、遊びながら食べるのは変わらないが、両方共にKのペースの中にあった。
 
(つづく)
 

椅子のぬくもり 〔絵本のさんぽみち〕


「ぼくは いすです。ちいさい こどもようの いすです。」こんな風にして絵本の話が始まる。(「ちいさな いすの はなし」竹下文子・文、鈴木まもる・絵、ハッピーオウル社・刊)
「いすに なるまえ、ぼくは ざいもくでした。もっと もっと まえは、やまにたっている いっぽんの きでした。」
「ざいもくの ぼくを いすに してくれたのは、かぐつくりの おじいさんでした。」


おじいさんの家具工房には、たくさんの木工器具がある。「ちいさい こどもと なかよくしてくれよ」 そう言っておじいさんはいすをなでる。この場面の絵(鈴木まもる・絵)が、とっても素敵だ。あったかみがあって、見惚れてしまう。

小さな椅子は、若い夫婦に引き取られる。妻のおなかの中には赤ちゃんがいる。「このいす、生まれて来る子が使うといいね」「まだ早いかも」「いや、もうすぐだよ」なんて楽しそうに会話している。

そして赤ちゃんが生まれる。すくすく育ち、椅子を使い出す。椅子は、「車」になることもあり、「トンネル」になることもあり、そんな場面がいくつも描かれている。

やがて、子どもは大きくなる。椅子はもう小さくなる。そして物置にしまわれてしまう。

椅子は物置をぬけだして、トコトコ一人で歩いて行く。野原の真ん中で途方に暮れる。それから、旅をして、やがて古道具屋にやって来る。(そのいきさつは割愛する。何年も経っている)

その古道具屋の店先を、若い夫婦が通りかかる。妻のおなかには赤ちゃんがいるようだ。夫が言う。
「このいす みおぼえがある」

二人は椅子を買って家に帰る。

最後の場面は、椅子だけが描かれている。
「ぼくは いすです。ちいさい こどもようの いすです。これまで ずっと。これからも ずっと」
二人の間に生まれただろう子が椅子を使っている場面は、どこにも書かれていない。にもかかわらず、とってもあたたかい余韻に包まれる。

小さな椅子が野原でひとりぽっちで居る場面と、新たに持ち主が現れて椅子の気持ちが膨らんでいる場面とがある。後者の場面では、椅子の心のなかには「誰か」が居るのだ。そのことがこちらにも伝わってきて、なんだかうれしくなる。


 

「不要不急」「巣ごもり」 〔暮らしのさんぽみち〕

(安曇野を臨む)

コロナ禍のなかで、いろんな言葉が飛び交った。「パンディミック」「クラスター」みたいなカタカナ語もそうだが、「巣ごもり」「不要不急」みたいな、いつかどこかで聞いたような日本語もあった。とくに、「不要不急の外出は避けてください」のように、『不要不急』という言葉は盛んに飛び交った。いや、今も飛び交っている。

『不要不急』とは、「どうしてもいま必要というわけでもない」という意味だ。しかし、いま何が『不要不急』で、いま何が「必要」であるのかは、人によって異なる。ものすごく、主観が入り込む余地がある。

自分自身が『不要不急』な存在ではないかという感覚から自宅滞在を選択し、自らにとっての『要・不要、急・不急』を見極めんとして自己対話をし続ける一群の人たちがいる。そこに、急ごしらえの「巣ごもり」現象が追加された。コロナ禍が終熄した時、人が「こもる」ことは単なるガマンだったと思い、現実に忠実に「戻る」のか。とても興味がある。


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